めらんこりっく・めらんこほりっく

表紙がカオスでやんでれな本。
2本目の話は2008年頭くらいに書いたものだそうですので勘弁してやってください

2010.06.13.

夜間飛行

 人気のない裏路地は夜に静まり返っていた。古ぼけた街灯は音もなく明滅を繰り返す。明かりに惹かれた黒い虫が衝突するがつんばちんという小さな音と、自分が立てるゆっくりとした足音だけが狭い道路に響く音楽のすべてだ。五月の心地よく冷えた風がのんびりと、知らぬ間に伸びた前髪を揺らす。
 足を動かすたびに、パーカーの前ポケットに突っ込んだ財布がお腹の上で軽く跳ねる。彼が凝視していたCMはいい気分になれるコンビニのものだったけれど、残念ながら僕の家からいちばん近いのはあなたとコンビになってくれるチェーン店のほうだ。自転車の鍵を外すのが面倒くさくてなんとなく徒歩で出てきてしまったが、食事を終えて眠たくなってきた頭をまわすにはちょうどいい散歩になったようだ。
 今ごろ彼はテレビを点けっぱなしにしてソファの上でうたた寝でもしているんだろうか。しんと澄んだここからでは、ついさっきまでいたはずの騒がしいステレオ音声の満ちる部屋が、なんだか別の惑星のものであるかのようにさえ思われる。夜空を見上げれば、月の在処はよく分かるのに周りにはなんにも見えない。どうやら遙かな星々からの光は、朝から残ったままの薄い雲の中に染みてここまでは落ちてこないらしい。
 だらだら歩きながら適当に視線を巡らせていると、どこか遠く視界の隅で赤い光が瞬いた。思わず歩みを止めて目を細める。僕の歩調と大差ない速度で進むそれは、ひとつではなく赤だけでもなかった。黄色のような金色のような明滅、空の上の上を切る飛行機の光だ。じっと見る間に視界を横切っていく鋭く小さな光源に、暗さの染みた目の奥がくらむ。音もなくそれらが消えていった方角をなんとなく考えながら、僕はまた歩き慣れた道を進む。

 五分程度で到着した目的地は安っぽい電飾でいっぱいだ。退屈そうなバイト店員を横目に、僕はまっすぐデザートの並ぶ棚の前へと向かう。彼が物欲しそうな目を向けていたのはよその店の新商品だが、まあどれもこれも似たようなものだろう。ざっと視線をめぐらせて、はしに置かれていた透明なカップの小ぶりな杏仁豆腐を右手に確保してから、僕は自分のぶんを物色しにかかる。
 小奇麗に陳列された商品は種々様々で色とりどりだが、どれもこれも甘ったるくて重そうに見えた。いっそ僕も彼と同じものにしてもいいが、それでは面白くないし何より二人で食べる意味がない。どのみちお金を払うのは僕ひとりなのだが、どうせなら二人で二種類を食べたほうが得な気がする。顎に手を当てて、ずらずら並ぶ甘味の列を上から下までじっくりと順に眺めてみる。もっとよく検討してみようと少し腰をかがめたところで、肩をぽんと叩かれて反射的に振り返った。
「お前歩くの遅えよな。まだ着いたばっかりか」
 数分前に部屋に置いてきたままの彼が、僕の顔を見て呆れたようにそう呟いた。
「…………あなた、」数拍で状況を把握して、無意識に僕は頭を押さえる。「なんであなたまで出てくるんですか。鍵は?」
「ん? ああ、開けてきたぞ。お前ここいるんだし別に盗られるもんなんかねえだろ、あの家」
 悪びれる様子もなくまるで当然のように言い切って、彼としてはそれ以上言うこともないらしい。僕の背後の棚に若干嬉しそうな目をやって、それから僕の右手に握られたものに気がついたのか、こちらの顔を不思議そうに見てくる。確かに我が家の銀色の鍵は僕のポケットの中にあって、もう一つあったはずのスペアキーは随分と前に家の中で行方不明になったままではある。あるが、彼は僕の家に対して一体どういう認識を持っているのか。
「それ、お前が食うのか?」
「いえ……これは、あなたにと思いまして。……一応それなりに重要な文書なども置いてあるんですよ。携帯にでも連絡してくださればよかったのに」
「俺の杏仁豆腐のほうが重要だ」
 すぐ戻るしいいだろが、と軽く言い切って彼は僕の右手から冷たいカップを取り上げた。透けて見える白と赤い実を眺めて満足そうにうなずく顔に、それ以上責める気力があっさりと失せてため息をつく。出ていくときに内側から鍵を閉めてもらえばよかったのだ。ソファから起き上がるのが面倒くさいだとか、そういう言い分を律儀に聞いた僕が甘かった。
「なんだ、やっぱお前が食うか?」
 からかうような声に絆されて仕方なく、笑って首を真横に振った。

 間延びした店員の声と明るすぎる照明に見送られ、連れ立って歩く道は曲がり角一つで夜の暗闇を取り戻す。狭い道路に等間隔で並んだ電灯は、見えない星の真似事のようにちかちか瞬いて虫を呼ぶ。彼は指先にひっかけたビニール袋を手持ち無沙汰に揺らして歩く。風が時折強めに吹いて、その瞬間だけ快適な涼しさが髪をなびかせ視界を覆った。
「それ、あとで一口くださいね」
「ん、俺のか? おう、まずかったらやるよ」
 ゆらゆらと前後運動をする白い袋を、彼は指先で弾みをつけてくるりと一回転させる。遠心力にすくわれた僕と彼の甘い夜食は、そのままぐるぐる円弧を描いて何度も重力を吹き飛ばす。中身が酷いことになっていないか心配だが、透明カップの彼のと違って僕のほうは大丈夫だろうから指摘はしない。
「しかしお前、アイス食うにはまだ寒くないか」
 さかさまになった袋がてっぺんでほんの一瞬だけ止まって、そこから急激に落ちてまた上がる。呆れたような彼の言葉の通り、その中には散々悩んだ末に僕が選んだ水色の安いアイスバーが、杏仁豆腐と一緒になって入っている。
「どうせ汗をかく気がするのでいいんですよ」
「ほお、えらく積極的じゃねーか」
 どーしたどーした、といつもより数段楽しげに笑う彼がこちらを見る。
「なんでしたら、お返しに僕も一口差し上げますので」
「なんだよ、やるっつってんだろ? これ前にも食ったことあってな、うまかった」
 彼は少しだけ得意そうな顔をして、指先での回転運動をゆっくりと止めて左腕を下ろした。T字路を直進した道の脇には、ついさっきまで僕たちがいた小さなアパートがもう見えてきていた。
「それは楽しみですねえ」
 慣れ切った風景は行きと違って少しだけ音が増え、耳に心地よく静寂が揺れ消える。歩くたびにお腹の上で、ほんのわずか軽くなった財布が跳ねた。
 テンポの悪い会話をそれぞれかみ合わせたつもりで益体もなく繰り返し、そのまま僕らは立ち止まりもせずに部屋へと続く金属の階段をごんごんとのぼる。僕の部屋は二階の奥から二番目にあって、勝手知ったる足取りで彼の背中は迷いなく進んでいく。
「あ」
 数メートルだけ空に近づいた通路の上から、数千メートル彼方向こうに今夜二度目の光が見えた。音さえ届かない遠くで明滅する点のような赤や黄は、たくさんの人々と期待を乗せて雲を切る、大きな機体なのだろう。どこへ行くのかはわからない。あのくらい高く飛べたなら、遮るものもなく天上に溜まる星々の光さえ、まるで海のように見下ろすことができるのかもしれない。
「……どうした」
 狭い廊下の先で、振り返った彼が訝しげな表情で僕を見ていた。なんでもありませんと僕は笑って、唯一飛び回ることのできる灰色の天井を思い出す前にもう一度、視線を空へとすべらせる。等間隔で光り行くそれは、星のない夜の流れ星のようにも思えた。
「月日が経つのは早いものだな、とね。改めて感じまして」
 さわさわとふれるゆるい夜風は、涼しさの中にも確かに熱気と湿気をわずかに孕む。ちょうど一年前の夜にも、同じような温度の中で僕と彼は、あのときはとても遠くへ行った。唐突な僕の言葉に、彼はやんわりと咎めるように眼球を動かして、つられたビニール袋がぱさぱさ鳴った。
「そうだな。……早いな」
「この一年で、怖かったものがたくさんなくなりました」
 今にも消えるだろう瞬く光を見上げ、半ば願掛けのようなつもりで笑う。暗幕に針で穴を開けたみたいな遠すぎる人工の光は、そ知らぬ顔で点滅を続ける。本心ではあったけれど、それが事実なのかと問われたら、たぶん僕は返答に窮する。
「そうかい。俺は怖いもんずいぶん増えたよ」
 彼は、ざらついた低音でそう静かに呟いた。
 ためらいもなく伸びてきた腕が、僕の頭を軽くなでる。大人しく下へ傾いた視界には、自らと彼の両方の体と、ばつ印に凹凸を刻む暗い床がいっぱいに映った。今怖くないと思える理由を、口に出そうかどうか迷って、後頭部が引き寄せられたところで考えるのをやめた。目を閉じる。乾いた表面が唇に触れて、その隙間を埋めるように暖かいものが口内に入った。腕を握られる感触と、なにかが擦れるような音。簡単に熱を帯び始める体にぴたりと、なにかが当たって、わき腹のあたりがひどく冷たい。
 ――ああ、このままじゃ、溶ける。
 なんだか途端に笑えてきて、こらえたら震えだした僕を離して、彼は息がかかるほどの近さで面白くなさそうな顔をした。わき腹にくっついたコンビニ袋の中では、結露を帯びた水色のパックがじわじわと熱にやられている。腕を掴む手ごとそれを取り上げて、彼はふてくされたような視線で冷えた袋をじっと睨む。
「そうですね、」漏れる笑みを引っ込めずに、空気の軽さに混ざってうなずく。「そうかもしれません」
 微笑んで僕は、続く言葉をなにも言わない。

 付け足さない言葉がなにを通じて伝わったのか、やがて、彼までが観念したように苦笑した。
「なら、さっさと入って食おうぜ、これ」
 数歩で辿りつく小さな部屋への扉を、彼はなんでもないようにひねって開ける。本当に鍵もかけてくれなかったことに若干の衝撃を受けつつも、ただいま、と無意識みたいに呟いた彼の声音ですぐに忘れた。ただいまとおかえりなさいを、その背中に向けて音に乗せずにやわくささやく。彼は当然気付きもせずに、我が物顔で廊下を進む。
 今度こそ施錠しておこうと振り返ったドアの隙間の向こうの空には、三度目の光はもう見えなかった。星のない藍灰色の夜空に、願う当てもなくただ祈る。漠然と、大した切実さもなしに、雲の上の遠くの明かりを思い浮かべた。どうか怖いものが、怖いもののままなくなりませんように。なくなったこの部屋の合鍵を、彼が見つけてくれますように。それから、
「こら古泉、今すぐ食わんなら冷凍庫を空けろ! 冷食だらけでアイスも入らん!」
それから彼が、杏仁豆腐を僕に一口くれますように。

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ブループール

 さっきから、息ができない。なぜだろうと考えて、空気がないから、と僕の頭の冷たい部分が簡潔な答えを教えてくれた。目の前が暗い。とても明るい。まぶしい。目が開かないなら、みんな同じだ。水の上に落ちた画用紙みたいに、僕の意識と身体はじわじわ、青に染みて沈んでいく。このまま溶けて消えて朝が来たら明日、だれが僕の代わりに彼とチェスの続きをやるんだろう。そんなことはもうどうだっていいのだけれど、なぜだかひどく気になる。僕ではないだれが、彼の目の前の席に座るんだろう。
 ごぼごぼ、と僕の口から空気がこぼれて出ていく。試してみると案外簡単にまぶたは開いた。目を焦がすようなまばゆく青い液体のなかで、灰色の町並みは、ゆらゆらと水底にひそむ積み木みたいに見える。乱立するビルの合間に赤い光が舞っていて、もういいのに、と僕は苦笑する。
 知っているような知らないような声がひどく遠くから叫んでいる。

 すぐに助けてやるからな。

 見えないとわかっていて、首を横に揺らした。神のひとは僕を飲み込んでしまいたがっている。だから僕は神のひとに飲み込まれてしまいたいと心底思う。それだけなのだ。だれも苦しんでなどいない、つらくなんかない。よりにもよって助けてやるだなんて。声の主は僕の気持ちも彼女の気持ちも、なんにも分かっていない。

 いますぐ助けてやるから、もうちょっとだけ、待ってろ。

 言い聞かせるような声は、さっきより遠く大きく、響く。聞きたくない。この声の持ち主を僕は知らない。これ以上なにも知りたくない。僕はもうなににもだれにも感情を揺らされたくない。だから溶けて消えそうな今、しあわせだと思う。なにも感じない、なにも、思い出すことはない。彼女はいいと言ってくれた。認めて望んでくれた。だから僕はここで灰色に埋もれて青く染まって、溶解してばらばらになって、どこからもいなくなることができる。なにも考えなくてすむようになる。それはとても素晴らしいことだ。

 待ってろ、がんばれ、あきらめるな、がんばれよ、もう少しだ…

 声は必死に途切れなく叫び続ける。うるさいな、もう十分がんばったのに、まだ許してくれないのか、ひどいなあ…。僕も途切れなく文句を浮かべる。僕には呼ばれる理由などない。頭が空洞になったみたいにすべての声ががんがん響く。身体のなかの空気はとっくになくなっていて、あらゆる感覚が順々にしびれていく。助かるんだ、と僕は薄く微笑む。なにもわからなくなる、もうすぐ、もうすぐ、
 あと少し、もうちょっと…
 もうかすかにしか聞こえない遠くの声と、知らぬ間に合唱になっている。正反対のことを歌っているのに、僕はなぜだか少しだけ、嬉しいと感じた。僕をすくいあげようとしているこのひとは、僕が沈みきってしまいたいんだと知ったら、どんな顔をするだろう。あまり考えたくないな、と思った。もう考える必要のないことだった。
 さよなら、と最期に僕が口だけを動かす前に、急に灰色が抜けて青は逃げるように消えて消えて世界が割れるのを、失ったはずの感覚がどうして鮮明に伝えてくるんだろうと思ったところで目が醒めた。


 ほら、すぐだったろ。
 そんな声は僕の、いちばん大事にしまっておいてこれ以上聞かないようにしようと思ったひとの声に似ていた。
 目を細く開けると白がまぶしく刺し込んでくる。青くないのか、と僕は若干落胆すると同時にとても安心した。それは蛍光灯だった。少し見覚えのあるかたちと垂れ下がった紐の色で、どうやらここは彼の部屋のベッドの上である、ということをぼやけた意識で認識する。しかし記憶は今しがた見ていた青い夢のぶんしかなく、なにが起こったのかは僕にはわからなかった。
 大丈夫か、とさっき思い浮かべた声が不安げに尋ねる。僕は返事をしない。俺のことわかるか、続く問いかけにも答えずにいたら、古泉、と祈りの言葉みたく名前を呼ばれた。機械的に顔をそちらに向けると、なにかにひどく怯えたような表情で、彼が僕をじっと見ていた。
「…ほうっておいてくださって、よかったのに」
 考える前に夢の延長でつぶやいた声は、いつもよりずっと、かすれて小さかった。彼の表情がびくりとこわばり、しまった、と寝ぼけた頭にやっと電源が入る。ゆっくりとうなだれて黙りこんだ彼は、呑み込みそこねたように息を短く漏らした。
 あのまま死にたかったのか、とぞっとするほど穏やかな声で彼は僕に尋ねる。彼の望む返事がとっさに浮かばず、焦ってとりあえず口だけ開いたら、呼吸の仕方を覚えていなかった。体中の空気を吐き出すみたいに僕はひどく咳き込む。彼は慌てて顔を上げ、僕の背中を軽く叩いてさすってくれた。苦しくて目が潤む。彼の手が背中で刻むリズムに合わせて小刻みに息をする。ここには空気があるんだなあ、と僕は今さら気がついた。
 どうにか呼吸の落ち着いた僕を見て、無意識のように彼はため息をつく。その仕草がどこかくたびれて見えて、彼がとても疲れきっていることにやっと思い至った。お疲れなら休んだらどうですか、と弱い声をかけたあとで彼のベッドは今僕が占領しているのだと思い出す。どかなければ、と考えなしに一気に体を起こしたら今度は視界がぐらりと歪んでめまいがして、僕はとっさに額を押さえた。頭の悪そうなその動作を見ていた彼は眉をしかめ、僕をゆっくりと押し倒してまた横にする。
「なにやってんだ、いいからまだ寝てろ。お前は病人で怪我人なんだよ」
 でもあなたも、と口答えをすると彼ははっきり首を左右に振った。彼は泣くのをこらえている、そう思うと同時に頭のなかで否定して、僕は口をつぐんだ。今はなにを言ったところで、僕が彼を喜ばせることはできそうにない。そもそもそんなことは、ほとんどできたためしもない。
 彼との沈黙をいたたまれなく感じるのは初めてだった。くちびるのはしをゆっくりと持ち上げてみる。よかった、笑うことはまだできるようだ。なにがあったんでしたっけ、と静かに問うと、ぜんぶ俺のせいだから知らなくていい、と彼はこちらを見ずに低い声で答えた。
「原因は俺だよ。でも俺はお前に責められたくないから、なにも思い出さないでほしい」
 ひでえだろ、と彼は嘲った。聞き覚えのない、投げるようにかなしげな声だった。たとえ本当に僕の体調不良が完全に彼の責任なのだとしても、僕がそんなことで彼を責めるわけがない。彼はそのくらい知っているはずなのに、なにを言っているんだろう。
「お前を助けたのだって、俺のせいでお前が死んだなんて言われたくなかっただけなんだよ」
 ベッドに浅く腰かけて、彼は自分の手のひらを無表情に見ている。僕はその彼の横顔を寝転がったまま見つめている。頭のどこかがまだ溺れたままで、普段通りの塗り潰すような思考がうまくできない。彼の願うことばが、うまく出てこない。
 よかった、とつぶやくと、彼は戸惑った表情でこちらを振り向いた。続くことばを見極めるように、彼の澄んだ目が僕のくろい目のなかを奥の奥まで強く見つめてくる。彼がいま僕しか見ていないというただそれだけのことで、僕は思わず微笑んでしまう。感情がまた、怖いくらい揺らされている。やっと忘れたのに、もういやだ、と思う。思いたかった。
「それなら、助けてもらえてよかったなんて、嬉しくもなんともないことであなたに感謝しなくていいんですね」
 ことばは吐き出すように勢いよく、なめらかだった。そうだ、僕は助かってなんかいない。震える息を吐いてもういちど深く、今度は意識して微笑む。彼は目をわずかに見開き、表情を忘れたようにまばたきをしてただ僕を見た。それから急に顔を背けて前を向き、目を閉じて少しのあいだ黙っていた。
 短い間のあと、彼はベッドに座ったままで、僕の頭のほうへぱたりと横に倒れた。投げ出してあった僕の腕が、ちょうど彼の頭の下敷きになる。僕に背中を見せるようなかたちで倒れこんだ彼は、枕になった僕の腕の先、僕の手のひらに、自分の手のひらを擦るように重ね合わせて、握った。彼の熱が触れてやっと、僕は自分の手が死人のように冷えきっていたことを知った。
「なんにもわかっていないあなたが、助けてやる、なんて言ったんですか」
 僕は彼にいちばん言ってはならない、ひどいことを言っている。泣きたくなかった。怒りたくもなければ、まして笑いたくもなかった。それなのに心臓のあたりで感情が揺れる、感触がした。彼の手はいつもと何も変わらないままあたたかかった。
「なにが救いだか、あなたはわかっているつもりだったんですか」
 ことばだけが、不自然な冷静さを保って僕の舌からすべり出ていく。黙って笑っていなくなって忘れられて、どうして彼はそれを邪魔しようとするんだろう。
「お前がいなくなるのが、いやだって俺が思ったから」
 ひでえな、と彼は力なく笑った。その声があまりにかなしげで、僕は彼の背中へ寝返りを打つ。後ろから抱きつくようにくっついて、でも空いた腕をまわすことだけはしない。彼の背中は震えてなんかいなかったけれど、泣いていることはわかった。
「俺が思ったから、お前もおんなじだろうって思った」
 夢のなかのまばゆい青と、僕を説き伏せようとしていた遠くの声。蛍光灯の安っぽい光と、僕のせいで震えている彼の声。二重写しになって、どちらが正解だかわからなくなってしまう。
 枕代わりになった腕が、彼の重みで徐々に感覚をなくしていく。彼は僕の手をさらにきつく握りしめた。痛い。あたたかい。かなしい。……うれしい。
 なにもかも沈める青が恋しくて、なにもかも覆してしまう感情が、たまらなく苦しかった。

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繰り返さない夏の日に

 繰り返さない夏の日に、俺は古泉の腕を取る。八月のいちばん暑い日の、いちばん暑い昼過ぎの時間。約束もせずに狭い部屋へと尋ねていけば、誰何もせずに扉を開けた古泉が、俺の顔を見て不思議そうに、染みきった癖のように笑う。なにか御用ですか、と玄関口で問えばいいものをわざわざ俺を部屋に上げ、そのくせ忙しなく動き回りながら携帯を見てばかりいるので、そちらこそなにか用事があるのかと俺は問いに問いで答える。
「申し訳ありませんが、ちょうど今からバイトに行くところなんですよ。久しぶりの出勤なのでね、方々で少々手間取ってまして」
 せっかくご足労いただいたのにすみません、と古泉はいつもと同じ顔をして微笑んだ。案の定だ。嫌な予感だけ当たる。それとも好都合なのか。そのことで話があるんだが、なんて真顔で言って右腕を掴めば、それでこいつはもうなにも疑うことさえしないのだ。迎えの車がさらいに来る前に、直射日光とツクツクホウシの声が降り注ぐ道を辿って、握った手のひらが汗みずくになるころに、俺の家に着いてしまえばおしまいだ。訝しげにいくら質問を繰り返したところで、逃げ出す意志のないお前はだから結局逃げられない。いつまで俺のことを信じているつもりなのか知らないが。
 最後の詰めまで本当に、笑えるくらい簡単だった。古泉一樹というのはこんなにも危機感のないやつだったか? 後ろ手に縛られてベッドに転がされるまで自分がどういう状況に置かれているのかも気付けないほど深く、たった二年ちょっと一緒にいただけの男を信用したのか。俺はお前のことなんて、未だ半分も信じちゃいないってのに。
「あの、なにを……しようとしておられるんですか。ちょっと僕の理解が追いつかないのですが、その」
 返事はしない。半ばのしかかるように、抵抗するという発想さえないらしい体を押さえつける。上から適当にまさぐっていくと、俺の指が移動するたびに表情と肢体ががちがちにこわばって、俺にも行為にも慣れているはずの古泉とはまるで違う生き物のようにも思われた。
 目的のものは割にあっさりと見つかった。ズボンのポケットに手を突っ込んで指先で携帯を引きずり出す。布越しの刺激になにを勘違いしたのか、噛み殺された呼吸音が一瞬大きく色めいて震えた。
 画面には着信を示すマークが分かりやすく浮かんでいる。扱い慣れない機種では中を検分するのも面倒くさくて、ともかく電源だけ落としておくことにした。液晶が真っ暗になったのを確認して、さてどこへ放ろうかと考える。とりあえずこの部屋にこれを置いておきたくはなかった。
「動かないでそこにいろよ」
 返事を待たずに部屋を出て、足音の響く階段を降りる。今日一日はだれもいないリビングの、ごみ箱にでも落とし込もうと握った手を広げてみる。手のひらにおさまるサイズの青い携帯はところどころ塗装がはげて、使ってきた年月の長さを思わせる。最初に出会ったときから同じ機種。頻繁に、それも重要な用件に使うものなら買い換えてもいいだろうに、物持ちがいいのかものぐさなのか、それともまた支給品だからどうとかなのか。俺の知ったことじゃないが。
 落とそうと目を落としたごみ箱の中には、昨日妹と取り合って食った夏季限定ポテチの袋が大胆にねじ込まれていて、剥きだしになった内側の銀色が油でぎらぎら光っていた。手の上に乗った小さな機械としばらく見つめ合ってから、仕方なくテーブルのはしにそっと寝かせる。俺と古泉の視界に入らなければ、予告もなく鳴り出したりしなければ、どこにあろうがどうでもいいのだ。
 一階へ下りてきたついでに、冷蔵庫から作り置きの麦茶と食器カゴから乾いた自分用のグラスを出して喉を潤した。炎天下で搾り出された水分が全身に帰ってきて大きく息をつく。窓を開けていない室内も相当に空気が重たくて暑い。食器棚から来客用の綺麗なグラスを取って、少し悩んだ後冷凍庫のいびつな氷をいくつか入れた。まとめてかかえて階段へ向かう。麦茶の入った古くさい柄のピッチャーが冷たくて、触れた肌だけ感覚が消える。
 部屋へ戻ってくると、古泉は言いつけどおり大人しくベッドに横たわったまま、覇気のない顔で天井を見つめていた。俺の部屋にはローテーブルと呼べるような気の利いたものはないので、机の上にグラス二つとピッチャーを並べ、先に自分のぶんを注いでまた二口飲む。音で我に返ったのかこちらを向いた古泉と、目が合ったと思ったら怯えたように逸らされた。氷が入った薄いグラスにも麦茶を注いで、ベッドの脇まで持って行ってやる。
「体起こすくらいできるだろ」
 立って見下ろした古泉の表情はまさに叱られた子供みたいだった。結ばれた腕が下敷きになってうまく動けないのか、俺がかがんで近づいてもわずかに後ずさっただけで目をつぶる。こいつにこういう、恐怖なんて感情をぶつけられるのはたぶん初めてで、硬く閉ざされた瞼と噛み締められた唇につい見入った。馬鹿みたいに信用しきって簡単についてきたかと思ったら、ものの数分でもうこれだ。これで俺が、信じられるわけないだろう。上から覆うように持った冷たいグラスを、ひきつった頬の上にゆっくりと乗せてみる。
「……っ」
 びく、と身を震わせてから、恐る恐ると言った具合に瞳が開く。ガラスの表面を伝った水滴が頬にすべり落ちて、ようやく俺がなにをしているのか理解したらしい古泉は、視界に入らない自分の頬と、俺の表情とを戸惑ったように見比べている。
「暑いだろ。麦茶でも飲んどけ」

 これまたリビングから運んできた古くてでかい扇風機を、部屋のど真ん中に設置して暑さをしのぐ。全開になっている窓からはほとんど風が吹き込まず、淀んで生ぬるい風が回転しているだけなのだが、それでも目の前にいれば多少なりとも体感温度は下がった。右へ左へ重たい首が振られるたびに、ベッドの上に足を投げ出し壁にもたれた古泉の、邪魔そうな前髪が舞い上がる。その間だけ閉じられる目を、俺はふちに腰掛けてぼんやりと眺めていた。
「なあ、我々はーってやってみろよ」
 はあ、とかなんとか言いながらうなずいた古泉は落ち着いた様子で、デフォルトの笑顔が若干弱々しい点を除けばほとんどいつも通りに見えた。いつまでも怯えたままでいるのも疲れるのだろう、べつになにもしねえよ、と一言告げたらそれだけで、古泉は心底安堵したように俺に向けて微笑みさえした。腕が使えない相手に茶を飲ませるのがいかに難しいかはすぐに理解する羽目になったが、ほどくにはまだ足りなかった。
 扇風機の中心を見つめるばかりの古泉は、不思議そうな顔でふとこちらへ首を向ける。
「我々は宇宙人、ですか? それとも、超能力者」
 語尾の上がらない疑問形が似合う顔をした古泉は、無害そうにまっすぐ俺を見ていた。前髪が風で上がって、普段隠れている額が顕わになると途端に年相応の幼さが露呈する。そんなんどっちでもいいだろ、と答えようとして、真綿で首を絞め殺されるような違和感が、二年と少しの記憶の中から走馬灯のようにせりあがった。古泉はなにも言わないが、世界のどこかではまだ巨人が暴れまわっていて、古泉に似た知らないやつらが、それをぐるぐる狩っているのだ。
「……お前だけだろ。俺は違う」
 たぶん今日初めて、俺は古泉に向けて笑ってやった。
 古泉は虚を突かれたようにまばたきをする。それからさっきまでと変わらない、ひきつった表情を作る。頭のいいこいつのことだから、俺がなにを言いたいかぐらい、いい加減わかってきたのだろう。こわばった顔で確かめるように俺の名前を呼ぶ声が、回る羽根で細切れになって、俺は意識して苦笑した。
 せっかく壁際に座らせてやったのに、腕が使えない間抜けな格好でまで、古泉が俺のそばまでにじり寄ってこようとする。手を伸ばしたらすぐ届くのだが、俺はなにもせずにただじっと、珍しくひどく慌てたような古泉を見ていた。そんなに動揺するほどのことでもないだろうに、お前にとっては大した意味もないはずだ。扇風機が反対の方向へ向いて、一瞬で停滞した空気が吸い込む肺に熱を溜め込んでいく。古泉の首元にも汗で髪が張り付いている。指で拭うついでに舐めてやったら、きっと気持ちよさそうに抑えた声で鳴くだろう。明日の昼までならこの家にはだれもいないから、別に我慢させなくてもいい。体ごと倒れこむようにぶつかってきた古泉が、胸元に頭をこすり付けて子供みたいに嫌だ、と呟いた。手首に巻いた紐をほどいて、抱きしめる身体が震えているのには気がつかないふりをした。


 いつの間にか、窓の外には夕闇が広がっていた。そういえば閉鎖空間は無事に消滅したのだろうか。一人いない程度で戦力が劇的に変わるとも思えないし、だれもなにも言ってこないところを見るに、世界は今日も何事もなく終わりに向かうだけなのだろう。さしたる問題にも思えない。古泉が駆けずり回るようなことはなにもない。
 まとまらない呪詛のような思考が、ぐるぐると頭の中で繰り返す。
 こんなことを言ったって古泉はきっと笑いもしない。分かっているのだ。だから俺はなにも伝えずに、ただ浮かぶ感情を摩り潰す。古泉にとってはきっともっと重たくてこいつ自身を振り回すような大きすぎて途方に暮れるしかないくらい大切なものが、俺やこいつ自身のほかにいくつもいくつも存在していて、だから、俺はお前になにも言えない。してやりたいことなんていくらだってあるのに、あるはずなのになにもない。お前が願うことだって本当はいくらでもいくらでも、たぶん、野球選手になりたいだとかいうもうどこにもないものから、次の授業サボって寝たいとかそんなくだらなくて簡単に手に入るはずのものまで、それこそお前が好きだったって言って笑った星の数くらいにはいくらだってあって、あるはずなのになにもない。
 散々やったから芯まで疲れきったのか、目を覚まさないままでいる古泉の頭をなでて、ずれた布団を肩まで引き上げて隙間を塞いでやる。日が暮れても温度はさして下がってもいないが、さすがに裸のままでは寒いだろう。こんなことしなくたっていいのに、いっそ風邪でも引いて伏せれば俺に向かって少しくらい、――いや、お前は俺に助けなんか求めないよな。知ってるさ。お前のためだけに俺ができることなんて、本当にあるんだろうか。閉じ込めてしまえたらいいのに。俺が守ってやれるところにいてくれたらいいのに。本当ははじめから最善なんて分かりきっていたはずだったのに、今みたいに疲れて眠り込むお前が、あんまり無防備に目を覚ましもしないから、だから俺は、どうしたらいいか、思い出すことさえやめたくて仕方がなくなってしまったのだ。
 手首に赤く浮かんだ痕を指の腹でそっとなぞって、舐めてみたところで消えるわけもない。できるならもう起きなければいいとさえ思っても、夜が明けるのを止めてやることすらできなかった。


 朝焼けで空が紫に染まるころ、古泉を見送りに家を出た。なにか言いたげに向けられる視線を無視して、昼には家族が帰ってくるからと正当な理由をつけたら抵抗もせずにうなずいた。朝食も摂らずに連れ立って扉を開けて、昨日の昼と同じ格好をした古泉は黙りこくったまま笑いもしない。
 早朝の澄んだ空気の中で、つかず離れず、隣り合って二人で歩く。太陽に焼かれていない風は心地よく冷えていて、望んでもいないのに意識が醒める。古泉はこちらを見ずに、時折目をつぶって口角だけ上げる、練習をしている。会話もなく明るくなっていく環境音に耐え切れず、電源の切れた携帯を無言で返すと、古泉はようやく、ありがとうございます、と一言ぶんだけちゃんと笑った。
「お前が大事なのは、俺じゃなくてそういうもんだろ」
 だからそんな顔すんなよ。なにもなかったみたいに笑えよ。飲み込んだ台詞は口に出さなければたぶんなにひとつ伝わらない。
「……そうかもしれませんね」
 ぎこちないほほえみを浮かべるくせに、古泉は静かに立ち止まって、俺の目を真正面から見ようとする。取り合いたくなどない俺は、道路脇で干からびて死んでいるミミズでも見つめていようと顔を背ける。古泉の左手に握られた携帯は、まだ電源を入れられていないようだった。手首にはまだ、こすれたような細い傷が残っているのがここからでも分かる。
「でも、あなたが思っているよりは、僕はあなたのことが好きなんですよ」
 平素と変わらない穏やかさでそう言って、古泉はすみませんでした、と小さな声で付け足した。なにを謝っているつもりなのかは知らないが、左手に力を入れすぎているのか、握りこぶしが真っ暗な携帯ごと小刻みにかたかた震えている。
「僕たちは、……僕とあなたは、決して同じではないということは、僕も理解しているつもりです。ですが、その、……どうか、」
「悪かった」
 顔を上げて真向かいから馬鹿げた言葉を遮れば、伏せられた瞳が綺麗に見開かれて、それから嬉しそうに俺を映す。同じではない、はずがないとも思う。古泉がそれを望むなら、俺は古泉の言う俺と古泉のふざけた違いを、いくらでも忘れるくらいはできる。それで古泉がつられて忘れて笑ってくれるというのなら、ついでにお前以外全部忘れてみせたっていい。
 手を伸ばして、昨日と同じように細い腕を強く掴む。心得たようにほほえみが返ってきて、朝食はなにに致しましょう、古泉はどこか誇らしげに笑う。
「俺は、お前の好きなもんでいい」

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