ごみ箱を空にします

平行世界設定の消失古ハル本です。DTA消失モードのシステムボイスネタ。
3本目のタイトルはずっと変えたかったんでこの機に
消失古ハルはサイトにある話も含めて全部うすぼんやり繋がっていたりします

2010.10.10.


 あなたが笑ってくれますように。どうか、彼が戻ってきてくれますように。
「願い事、ないの? 古泉くん」
 困ったように微笑んで、芝居がかった動作で首を横に振れば、涼宮さんは一言そう、とだけ呟いて目を伏せた。元より彼女だって期待していたわけではなかったのだろう、それ以上の反応はなかった。
「涼宮さんはなにを願うのですか?」
「……神さまに願い事はないわ」
 一オクターブ下がった声が溜息を落とす。日没を先延ばしにする夏の空は、梅雨の合間にあって珍しく雲のほとんどない、色の薄い夕暮れを今にも始めようとしていた。部活に所属していない、向かうべき部室もない同じ境遇の生徒たちが、坂道をばらばらに歩いている。夏用の薄い制服にまぎれる僕も彼女も、はたから見ればごくありふれた学生の一人一人でしかなく、また実際にその通りだった。
「そうだ。これ、」
 抑揚のない口調のままで、彼女がスカートのポケットを探り出す。「手」「あ、はい」彼女に近いほうの右手を平らにひろげて、僕より低い視線に合わせて高さを合わせる。その上に、彼女の手のひらがためらいなく重ねられた。触れたところが熱い、と認識する前に、小さな手のひらは簡単に離された。
「捨てといてくれないかしら。悪いけど」
「……これを、ですか?」
 こちらを見ずに、涼宮さんはうなずいた。長い黒髪が合わせて揺れる。隠れた左耳のあたりが、注意しないと気付かない程度に、周囲の長さから浮くように短く切り取られている。
「分かりました。……捨てておけば、よろしいんですね……」


わずらう

 あの日と同じ席に通された時点で、すでに後悔の予感はしていた。この会合がなんの価値もなかったことは開始十分で分かってしまったし、それ以降黙っている理由をつくるためのホットコーヒーはもうとっくに空っぽだ。白いカップの底にはいびつな黒い輪だけが残っている。
 重苦しい空気をどうにか緩和させたいのか、隣の古泉くんは先ほどから何度も、当たり障りのない質問を向かいの二人に投げかけている。便利のよさそうなほほえみは大体いつでも誰にでも振りまかれているものだが、やはりそれなりの効果はあるのだろう。
「お二人とも、部活に所属しておられましたよね。北高での部活動は、具体的にどのような様子なんですか?」
 古泉くんはあたしと違って、春ごろのクラスメイトたちに似て、穏便に時間を浪費するための会話が得意だ。もう一度だけ四人で集まりたいというあたしの誘いに、再会した瞬間からおどおどしっぱなしだった朝比奈さんも、今はずいぶんと落ち着いているように見える。話の内容は心底どうでもいいが、新たな発見が一つあった。この子は泣いているより笑っているほうが断然かわいい。もちろん泣き顔もかわいらしくて好きだけれど。もっとも、彼女を選んだのは一応あたしに違いないのだから、好ましく感じるのは当然なのかもしれない。
「そうですねえ、あたしは書道部のことしかよく知らないんだけど……。この前は、みんなで書き初めをしましたよ。あたし、何を書くかなかなか決められなくて……」
 でもこの朝比奈さんは、未来から来た少女ではない。
 童顔によく似合う高い声に、会話の教本に載っていそうな古泉くんの上手な相槌が返る。中身のないやり取りを聞き流しながら、あたしはカップの持ち手に注いでいた視線を正面へと移動させた。あの日、ジョンが座って、あたしを見て何故だか笑っていたのと同じ位置にいる長門さんは、両手でメロンソーダの入ったグラスを握りしめたまま、必死に黙りこくっている。聞かれない限り何も話さず、聞かれたら必要最低限の受け答えだけ。この店に入ってからも古泉くんが幾度か話を振っているのだが、長門さんは首を動かすばかりで、二言以上口を利くことはなかった。白い手がすがりつくグラスの中は、あたしのとは対照的に最初からほとんど減っていない。この寒いのに何を思ってメロンソーダなのだろう、尋ねたところで答えてはくれないのだろうが。
 彼女が視線に気付く前に、あたしはまた目線を虚空へ泳がせる。隣の二人の会話はまだ途切れていないらしい。古泉くんもよくやるものだ。あたしなら興味のない会話なんて一往復も耐えられない。耐える理由が理解できないし、したくもないからしようとも思わない。あたしの鼓膜を通らない古泉くんの言葉で、朝比奈さんがなんだか嬉しそうに笑った。女の子らしいしぐさで、大きな胸がつられて揺れる。胡乱な気持ちで見やった古泉くんの右の頬は、クラスの女子たちに捕まって相手をしているときなんかとは、どこか違うようにも見えた。
「朝比奈さんは二年生なんでしたよね。ということは、後輩の指導などもされているんですか?」
 薄い唇から出ていく声が、いつも横で聞こえるものよりも、ずっと軽いように聞こえる。あたしに質問をするとき、古泉くんはこんなふうに笑ったりしない。ほほえんではいるけれど、もっと、――そうだ、かなしそうに笑う。
 黒目の先が行き場を失って、じりじりとテーブルの上をさまよう。ロイヤルミルクティーの白いソーサー、ホットココアを口に運ぶ朝比奈さんの細い腕、コースターの上に作り物のように鎮座する鮮やかな緑色。着色料と砂糖水とレンズ越しに、長門さんが伏せた瞳であたしを見ていた。あの部室で出会った時と同じく、常になにかを恐れるように揺れる視線が、確かにあたしを捉えている。だんまりを決め込んだ彼女は、射返すあたしに相変わらずなにも語らない。けれど、僅かにうるむ瞳と動かない表情と露骨な感情とが、確実にこちらを向いていた。
 長門さんが意図しているのかいないのかは知らないが、彼女は声を発さずにあたしに分からせようとしている。自分と同じ感情を、あたしに押し付けようとしている。分かりやすい、だから理解することはできる。けれどもそれを受け入れるかどうかは、理解などとは関係がない。腹の底がぐらぐらと熱い。飲み込んだホットコーヒーが元の熱さに戻ったかのようだ。淀みなく笑い続ける古泉くんには、もちろんそんな能力はない。
「え? うーんと……ううん、たぶんないと……思うんだけど。ごめんなさい、あたしはそのぉ、あんまり分からないです。あの時はすごく怖かったから……えっと、そうね、鶴屋さんに聞いたらなにか知ってるかも」
「そうですか……。いえ、ちょっと気になっただけですから。大したことではありませんので、どうぞ忘れてください」
 分かりやすい感情は、だからそれだけありふれていて、仕組みが理解できるとしたってあたしにとっては無益で無価値で不愉快でしかない。シンパシー? 仲間意識? 憐みと同情か。そんなものじゃない。あたしがここにいない彼に思うのも、隣にいる彼に思うのも、そんなくだらないものじゃない。あたしが望むのはそんなありふれた、つまらない、分かりきったものじゃない。三年半前にジョンがあたしに教えてくれたのも、二週間前に彼がもう一度話してくれたのも、もっとずっと、胸がうずくような、夜空に輝く星のようなもので、あたしが欲しくてたまらないのはそんなバカげた恋愛感情じゃない。目の前の長門有希は、よりにもよってあのジョンのいた場所で、一体どうしてそんなことを思うことができるというのか。
 ――この子が宇宙人でもインターフェイスでもない、ただの人間だからだろう。
「帰るわ」
 かばんを肩に引っかけて立ち上がる。と、見下ろす形になった古泉くんが、虚を突かれたようにあたしを見上げた。向こうの二人もこちらを見ているのが視界の端に映っていたけれど、あたしにとってはどれもこれももうどうでもいい。新しく思い出すことも手掛かりもなにもないって、分かった時点でさっさと帰っていればよかったのだ。
「古泉くん、そこどいて」
 動かない彼はあたしの声に、――ああまただ、今までとは打って変わって笑みを消し、狭い座席から外へ出た。振り返る理由はないから、あたしはそのまま出口へと向かう。後ろから朝比奈さんの高い声と、それに早口でなにかを答える古泉くんの焦ったような声が聞こえたが、店員の上ずったありがとうございましたに掻き消された。透明な扉の向こうは凍えるように寒くて、店内には暖房が充満していたことを今更知る。丸めたコートを広げて右腕を通す。かばんを持ち替えて、左の袖を探すのに手間取っていると、古泉くんの青白い手がそれを掴んで示してくれた。
「すみません」
「なんで謝るのよ。古泉くんはまだ話してていいわ、あたしが帰るだけ」
 左腕を通して前を閉じれば少しは暖かい。下り坂に踏み出すと、古泉くんは当たり前のようにあたしの隣に並ぼうとする。
「ご一緒させてください」
 よほど急いで来たのか、かばんと財布とコートとマフラーが同じ手に無理矢理抱えられている。灰色のマフラーの端は地面に付きそうだ。顔を上にあげると、古泉くんは手ひどく叱られでもしたような表情をしていた。
「……怒ってないわ。別に。帰るんなら一緒に帰りましょう」
 お互いの吐いた息が白く濁り合う。古泉くんが元通りに笑ったことにあたしは無意味な安堵を感じて、感じた途端に背中をぞっと寒気が走る。振り払うように唇を噛んだ。歩く速度を速めようとして、数歩進んだところで足を止める。振り返ってコートを着るよう無言で促せば、古泉くんは自分の見るからに寒そうな姿に対して、たった今気が付いたような顔をした。
「……結局、なにも分かりませんでしたね」
 財布をしまってコートとマフラーを着込んだ彼は、いつもより少し小さな声でそう呟いた。初めから分かりきっていたことだし、話し始めて十分もせずに出た結論でもあった。去年の十二月二十日に出会ったジョン・スミスは、迷い込んだこの世界から元の世界に帰ることができたのだ。常識的で至極まともな世界など置いて、胸がうずくような面白いことに満ち溢れた世界へ。あたしたちに残されたのは北高の体操服とジャージくらいで、なにが本当だったのか、あの瞬間なにが起きたのか、もはや彼の存在の有無さえも、なにも分からないままだ。ただひとつ確かになったのは、ここが彼のいた世界とは違う、平行に存在する世界かなにからしいということだけだった。
「涼宮さんは、あのお二人がお嫌いですか?」
 朝比奈さんに向けていたときとは明らかに違う、弾まない笑い方で、古泉くんがあたしの顔を見る。長門さんがしていたように、あたしは黙って首を横に振った。嘘じゃない、嫌いではない、違うだけで。
「古泉くんは、好きなの?」
 尋ね返すと、一拍置いて静かに笑うような音が聞こえた。隣を見上げれば、古泉くんはどこか嬉しそうな表情でこちらを見ていて、そんな顔を見るのはいつ以来なのか、あたしは思い出せなかった。けれど、出会ったころにはたしか、彼はこんな表情をしてくれていたような気がした。
「魅力的な人たちだとは思いますが……」
 なにがおかしいのか、古泉くんはそう言って目を細める。それから見慣れた薄い笑みで、困ったように首を振った。置いてきた二人はどうしただろうか、と今更ぼんやり考える。きっともうわざわざ会うことはないだろう。たぶん、あたしたちだけでは足りなくて、なにかが違って、うまくいかない。あたしは、朝比奈さんのようにかわいらしくも、長門さんのようにただの女の子にも、なれないし、なりたくない。そうなることを、認めたくない。長門さんの視線を思い出して、あたしは古泉くんの顔から、そっと地面へ焦点をずらした。そんなのじゃないことを、分かってくれるのはもうたぶん古泉くんだけなのだと、それだけは疑いなく信じることができていた。
「……どこにいるんでしょうね、彼は」
 消え入るような低い言葉は、あたしに向けられたものではないのだろう。それでも見えない隣の声は、あたしに向けられるのにふさわしく、とてもかなしそうに聞こえた。

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さよなら、異世界人

 ゆっくりとした、しかし確かな足取りで、彼女はその床を踏みしめた。数十秒前までは間違いなく人間が一人立っていたその場所に、位相を重ねるようにして、涼宮さんは借り物の上靴で古く汚れた木目を擦る。男と同じまっすぐな姿勢で、高さの足りない瞳が眼前のモニタを見下ろした。彼がつい今しがたまでかじりついていた旧式の大きなパソコンは、先ほどの白い文字列を思い出すこともなくただ沈黙を保っている。細い指がそっとキーボードに伸びて、迷うように揺れたあと、手垢のついたエンターキーを押し込んだ。
 かしゃ、という音に視界の隅の朝比奈さんがびくりと震えて、ただそれだけだった。画面は依然として真っ黒のまま、機械特有の起動音もしない。パソコンの電源はやはり最初から入っていなかったのだろう。安堵か失望か、涼宮さんが張りつめた糸を切る浅い溜息をついた。
「……え? あれっ? へ、あのう、なにがどうなって」
 長机ががたりと揺れて、混乱に満ちた高い声が短い悲鳴とともに途切れた。片手で白い紙を握りしめた長門さんが、机のふちに寄りかかるようにすがりついている。かたかた震える小さな体は今にも倒れてしまいそうで、僕は慌てて横にあったパイプ椅子を差し出した。力なく座り込んだ長門さんの頭の上で、どちらともなく顔を見合わせる。涼宮さんは最後に彼に対して向けていたのと同じ、信頼と不安に期待を混ぜた、咎めるような黒い目のままで僕を見ていた。
「……ねえ、古泉くん」
 弾まない声が地面に落ちる。名前を呼ばれてようやく、自分の顔が周りの女子たちと同様の表情で固まっていたことに気がついた。口を開いてみても頭の中に言葉が見当たらない。なにが起きたのか分からない。やっとそれを理解して、ようやく僕の背中にも寒気が走る。
「これって、不思議なこと、よね?」
 肯定も否定もとっさには浮かんでこなかった。返事がないのをどう受け取ったのか、涼宮さんはどこかぎこちない足取りで本棚と長門さんの座るパイプ椅子の間をすり抜けて、そのまま迷わず扉へと向かう。進路上に棒立ちの僕を見上げることもなく、歩みにはもうためらいがない。すれ違いざま、手首が力強く引かれた。
「確かめに行きましょう」
 熱を帯びた五本の指が脈を止める強さで食い込む。半分だけ見えた彼女の唇は固く引き結ばれていた。高い位置で結われた黒い髪が間近で揺れる。かすかな汗の匂いがする。扉が勢いよく開け放たれて、朝比奈さんが背後で戸惑った高音をあげた。張りつめた世界に空気穴を穿ったように、見慣れぬ廊下は冷えた外気が吹き抜けていた。剥き出しの腕と足から鳥肌が全身へ這いまわる。涼宮さんは意志に満ちた足取りで、僕を引きずらんばかりに先を急ごうとしていた。ぴんと伸びた細い腕から続く肩を覆うのは薄っぺらいTシャツだけで、なんとなく、体操服を着るのが僕でよかったと少し思った。彼女が今どんな顔をしているのか、背中からでも僕には分かる。この服の持ち主がもうどこにもいないことを、目の前で起きたこれ以上なく不思議な出来事を、彼女は笑ってはいないのだろう。


 朱色に染まった文芸部室には、息苦しい重さがあからさまに停滞していた。扉を開けた正面の椅子で、「あ……」朝比奈さんが帰ってきた僕たち二人に気が付いて、大きな目をさらに丸くする。目尻はうるんだままだけれど、ドアが開いたことで緊張感が薄まったのか、若干安堵の色がうかがえた。
「……おかえりなさい」
 ただいま、と笑って返すことができるほど、僕はこの部屋のことを好きではなかったし、そのように見せかける必要も特に思いつけなかった。頭を下げて適当にほほえむ。涼宮さんは無反応で部屋の中へすうっと入っていく。待っているのはてっきりもう一人のほうだけだと考えていたが、ブランケットがかかったパイプ椅子の上に人影はなかった。
「あ、長門さんは……あっちに」
 僕の視線を追って、朝比奈さんが途端に元の不安定さを取り戻したように眉を下げた。恐る恐るといった首の動きで示された方向――部屋の隅の窓際では、夕日の逆光が少女の形に黒くくり抜かれている。影絵にすら思えるそれを目を細めてじっと見れば、長門さんが厚い本を膝に広げて頭を垂れ、身じろぎもせずに固まっているのだと分かった。
「朝比奈さん」
「ひいっ」
 僕から少し離れたところに立っていた涼宮さんが、感情を押し潰したような声音で平坦に喉を震わせた。不愉快の乗らない、好奇心の通わない、ただ音を成すだけの彼女の声は、何故か幼くつたなく聞こえた。
「朝比奈さんは、未来から来たの?」
 あるいは、彼の言っていた話はすべて本当だったのかもしれない。三年前、僕にはあずかり知らぬ夜空の下に、この気の弱い少女もいたのかもしれない。涼宮さんと、彼と同じ時空の中に。
「……未来って? 何のことでしょう。あたしは……あ、あの人のこともほんとに知らないし、なんで……。なんのことなんですか、それ」
 涼宮さんは答えない。なにも言わずに、窓際の少女へ目を移す。重く、しっかりとした足音が、動かない長門さんのほうへと進む。近づく人の気配にも、文芸部のただ一人の部員は本から顔を上げようとはしなかった。
「長門さんは」
 ページの端をずっと押さえたままの指が、声に合わせてほんのわずかに震えている。
「宇宙人?」
 地球の自転が止まったかと錯覚しそうなほどの完全な停止の後、糸に引かれたように静かに、眼鏡の少女は面を上げた。頬はほの赤く染まったままで、何事かを紡ごうとする小さな唇はここからでも分かるくらいにわなないている。涼宮さんの目を見上げようとして、恐怖したように華奢な体が揺れた。うつむいて首が横に振れる。否定のしぐさ。
「そうよね。そんなの、当たり前よね」
 くるりと夕焼けの窓に背を向けて、誰のものとも知れない上靴の底がぎうっと鳴った。長いポニーテールがつられて軽く浮き上がり、重量に負けてまたすぐに背中にばらける。まっすぐな視線が一度だけぶれて、古めかしいパソコンを真ん中に捉えた。瞬間に瞼が閉じられる。涼宮さんは迷わず長机に歩み寄り、ジャージの上着に包まれた学校指定の鞄を二つ、取り出した。それから、一まとめに置いてあった小汚い体操服入れをじっと眺める。北高の生徒なら誰もが持っているものなのだろうに、そこには名前さえ書かれていない。袋の中身はぐしゃぐしゃに丸まった、光陽園の黒い制服だけだ。


 下り坂を降りるころには、夕闇は夜へと色を変えていた。冬用制服にコートを着込んでマフラーを巻いても、冬の夜の寒さは容赦なく体の芯を凍らせる。タクシーで登った道を戻りきって、門の閉まった学校の前を過ぎてしまうと、いつもの帰り道と違うところさえなくなった。ただ一つ、涼宮さんが持つ、無記名の体操服とジャージの入った袋以外は。
 ジョン・スミスなんて名乗った男は、本当に存在していたのだろうか。
 北高には、彼と思しき生徒はいないし、いたこともなかった。そうとしか思えなかった。もちろんパラレルワールドへのワームホールも世界改変のためのスイッチも、不思議なものなんて何一つ残されてはいなかった。彼の存在を肯定するものはただ僕たち四人の記憶と、彼女の揺らす不格好な袋と、それからあとはなんだろう。僕の財布の中にある喫茶店のレシートは証拠能力を持つのだろうか。ホットオーレを頼んで手もつけずにしゃべり続けていた、彼の存在が実体のある確かなものだと、何をもってすれば証明できるのだろう。三年前の、七夕のことも。
「古泉くん」
 半歩先を歩く彼女が、ほとんどいつも通りの口調で僕を呼ぶ。楽しくも面白くもなさそうな、失望と退屈に浸された声で。けれど少しだけ、幼げな声で。
「はい」
「古泉くんは、超能力者、」
 立ち止まる。まっすぐに下ろされた彼女の長い黒髪が、ふわりと舞った。こちらを振り返った涼宮さんは、あろうことか、ほほえんでいた。
「……だったら、よかったのにね」
 冷えた手首が、あの手の熱を思い出したように脈を止める。
「あたしが、神さまだったら。……古泉くん、あたし、なんとなくわかるわ。不思議なことが、もうこれっきりなの、わかるの。SOS団? を、結成するまでもなかったわね。ジョンは、」
 彼女の言葉を遮りたいと思ったのはたぶんこれが初めてだった。最後になればいいと思った。彼女は布でできた袋をあらん限りの力で握りしめて、そして、熱を帯びたその手は僕には二度と伸ばされないのだ。
「宇宙人も、未来人も、超能力者も、ぜんぶいるって言ってくれた異世界人は、どこにいるの?」
 あたしはここにいるのに。
 彼女が必要としているのは、僕でなくてあなたなのに。

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精神病

 窓が開く音。空気が動く肌触り。雨の匂いがする。でも、雨の音はしない。
「なにか、食べたいものとかありますか?」
 ベッドの上からじゃあ逆さまの壁時計まで焦点が合わない。首を反らして見たら頭に血が上ってきそうで苛々する。
「お昼には少し遅いですね。軽いもののほうがいいですか?」
 この家の枕は妙に高くてふわふわで嫌いだ。少し向きを変えるだけでいちいち沈み込む感じがするのが気持ち悪い。
「甘いものがいいわ」
 部屋の扉の前で注文を取る古泉くんは、指示されたものを買う店の候補をざっとリストアップしているような顔つきで従順にうなずいた。面倒くさい。伝わってくれれば楽なのに。でも放っておいたらどこまで行くか分からないから、あたしはなるべくわがままに聞こえない二言目を探す。古泉くんがたまに持ってくる洋菓子店の箱にはいつも高そうな店名が印刷されているが、そんな店はこの近所には、少なくとも徒歩で気安く行ける場所にはない。だからそれは食べたくない。呼び止める言葉を発しておくまでもなく、古泉くんはあたしの顔を見てにこやかに待っていた。
「その辺の適当なので別にいいわ。お腹空いてないし」
「了解しました」
 行ってきます、とわざわざ頭を下げてから彼は自分の部屋を出て行った。足音が短い廊下と階段を遠ざかって、やがてこの家の玄関が開いて、閉まって、鍵のかかる音。あたしは空っぽのよその家に一人、彼の部屋の彼のベッドの上に、ただの異物として転がっている。閉じた扉とは反対側、壁のほうへと寝返りを打つ。白いシーツの上の白い枕に今度は左耳が沈み込んで、肌の上のタオルケットがずり落ちた。雨が降る直前の暗い湿気が直接皮膚の中に染みる。ひんやりとして気持ちがいい。そういえばこの前の天気予報で、もうすぐここも梅雨入りだとかなんとか言っていたような覚えがある。それとも、そのニュースを見た古泉くんがあたしにそう教えてくれたんだったっけ。どちらでもいい。どっちでも同じだ。
 古泉くんは傘を持って行ったのだろうか。ふと思いついて、のそのそと起き上がってみる。よれたシーツに手のひらをついて、腕で支え起こす体が思ったよりも重たかった。全身に蔓延する気だるさはあたしの思考までも鈍らせる。こんなのはエネルギーの無駄だ。時間の無駄だ。でも、思考することも既に無駄だ。この手段に与えられた目的は、無意味なエネルギーと時間と思考をどうにかして浪費することなのだ。
 彼が半分だけ開けていった窓に顔を近づけて、無遠慮に空の様子をうかがう。初夏であるはずの街の上は青ではなく薄い灰色に塗られてのっぺりとしていた。太陽光が差し込む隙間もなく天上は雲に覆われている。道路に目を落としてもアスファルトの色が変わっているようには見えない。ちらほらとうごめく歩行者も傘をさしてはいないようだ。もうしばらくは大丈夫だろうが、漂う雨の気配は消えそうになかった。彼が帰ってくるまで保ってくれるといい、なんて疲れない単純なことを思う。
 顔を引っ込めてまたベッドに座り込む。この窓からは、向かいの家の窓とその奥の無人の部屋がよく見えた。最初に来た時に、古泉くんがカーテンを閉めながら向こうからも同じだろうとか言っていたような記憶がある。でも、それはあたしには興味のないことだった。
 窓のすぐ隣の壁を背もたれにして両足を投げ出す。左肩から入り込んでくる風が、生ぬるくざらついた肌を洗うようで涼やかだ。なんだか心地よくなってきて、今いる場所を忘れるために目を閉じた。ここじゃないどこか、この世界じゃないどこか、この宇宙じゃないどこか、せめて、この淀んだ部屋じゃないどこか。
 風に揺らされてばらけた髪が腕に絡まる、まとわりつく不快感で瞼がひらく。一分と経たないうちに無駄な思考はやはりまた、腹を焼くような苛立ちに変わる。長い髪。なあ、ポニーテールに――……――したところで、なにも変わらない。なにひとつとして変わらない。もう誰も喜ばない。
 揃わない毛先を指で拾い上げてみても、重力に引かれてすぐにすべり落ちていく。黒髪はシーツの上までたまっている。いっそ切ろうか。邪魔だから。肩あたりまで短くすれば、きっと少しは気も晴れるだろう。
 緩慢な速度でベッドから降りて、古泉くんの勉強机に手をかける。二、三冊重なったノートのまわりには、捨てそこないの消しゴムのかすがところどころ張り付いていた。クラスの女子たちがこそこそ話しているほどには、彼は几帳面でも真面目でもないのだ。知っているあたしは驚きもしない。目的のものはすぐに見つかった。使い古しのシャーペンやマーカーが乱雑に突っ込まれている四角い鉛筆立ての中に、飾り気のないはさみも一緒に混じっていた。
 右手にはさみ。左手に黒髪のゆるい束。無造作につかんだそこに、鈍い色の刃をあてがう。指先に軽く力をこめればなんの感慨もなく、微弱な抵抗だけを確かに、細い髪が手の中からすり抜けていった。フローリングの床に、ばらばらと黒い線が散らばる。切れた糸は思っていたより長くて、……ああ、なんだ。これじゃあまるで、失恋でもした女の子のようだ。バカみたい。バカみたい。バカじゃないの。バカじゃないのか。恋でもなんでもない。そんなくだらないつまらないありふれたものじゃない。あたしは、長門有希とは違う。それなのに、――それでも結局、ただのひとりの女の子、でしかなかった。
 床に座り込んだらいつの間にかはさみが落ちて、跳ねて、安っぽい金属音が鳴った。散らかる髪の毛のはしを下敷きにした太ももがざらざらとむず痒い。指先で細い束をすくい上げてみたら、それはもうあたしのものではないような違和感がした。違うのだ。四年前も、半年前も、今も、彼も、彼も。ぜんぶあたしのものじゃない。あたしの――望む――ものじゃない。
 罰印の形に転がったはさみは少し離れたところにわずかなへこみをつくっていて、手を伸ばしてみても届かなかった。ふいに、木目の上にばらまかれた髪がすっと浮いて、一方向に床をすべる。扉が開いて、空気が流れ込んできたからだった。
「すみません、お待たせしました」
 顔を上げると、目線の高さには白い袋があった。見覚えのある、近所のコンビニの小さなマーク。薄い白越しに、あたしの好きなアイスのパッケージが透けている。熱を持った頭の中に幼稚な喜びがわずかに広がって、冷たさを伴ったその感情がじんわりと緩やかに心臓をさましていく。好きだと言ったことはなかった。そのはずだ。でもたぶん去年の夏に、あたしはそれを古泉くんとふたりでいるときに食べたのだ。覚えてもいないけれど、きっと。
「……髪を、切るんですか?」
 ぱさぱさ言う袋を机に置いて、上からにならないようにだろう、わざわざしゃがんだ古泉くんが控えめに微笑む。拾ったはさみの刃のほうを握って、持ち手のほうを差し出してくれる。あたしは首を横に振った。不格好に切り取られたはしっこの髪がぱらぱら舞った。
「そうしようと思ったけど、やめたわ」
 不自然に切れたところと床に散らばる黒い毛を見て、彼は物分かりよくうなずいた。
「そうでしたか。……僕は、」
 続く言葉を大人しく待つ。そっと上がった古泉くんの右手が、水底で流れに逆らうのを恐れるような、質量のある空気を押し返すような実にゆるやかな速度で、あたしの顔の左へ近づいてくる。昼前に繰り返した動作――とは違って、触れる寸前でびくりと止まった。整った顔が、気を付けていないと分からない程度にほんの少しだけゆがむ。その誤差を両目に残したまま、彼は笑う。
「僕は、今の涼宮さんが好きですよ」
 息をたくさん含んだ声は、ふたりを切るには音量が足りない。白い喉が震える。バカみたいだ、あたしが。確信を生まないように慎重に、あたしが言葉を返す前に、古泉くんはいつも通りの笑顔をつくる。消えるみたいに立ち上がる。
 机の上には袋から出されたペットボトルやお菓子の箱がいくつか、消しゴムのかすを気にも留めずに置かれていった。彼の手が水滴の付いたアイスのパッケージを取り出したところで、あたしは足元の髪の毛を払って床を立った。腰まで伸びた髪の感触が邪魔なのは、これからもずっと変わることはないだろうけれど。
「あたし、好きだって言ったことあった?」
 凍った甘い砂糖水が嬉しいのだと分かるように、彼をまねして微笑んでみせる。古泉くんは着眼点を褒められた優等生みたいにちょっとだけ得意そうに首を振って、冷たい袋をあたしににこにこ差し出した。
 開けっ放しの窓の外から、今ごろ雨の音が聞こえ始めた。

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 ぐしゃぐしゃに丸めたはずの短冊を彼の部屋で見つけたのは、夏の終わりのころだった。
 古泉くんの宿題はあとは採点をすればぜんぶおしまいというところで、あたしは暇つぶしに彼の勉強机を適当に眺めたり、いじったり、ちょっと片付けてみたりしていた。無数に走っていた折り目が分からなくなるほど丁寧に広げられた緑の画用紙は、文房具が無造作に放り込まれた引き出しの奥底、新品の鉛筆が詰まった箱の下に、やけにきっちりと置いてあった。
 引っ張り出した色紙の下にはもう一枚、長方形の短冊よりも小さな紙がくっついていた。白くてつるつるした、安っぽい質感の紙だ。表面の印字が薄れてほとんど消えているけれど、たぶんどこかのレシートだろう。床に座ってローテーブルにノートを広げる古泉くんは、赤ペンで丸と数字と書き込むのに集中しているようだった。
「ごみ箱、どこだっけ」
 よく飽きないな、と思いながらわざわざ知っていることを聞く。頭を上げた古泉くんはにこやかに立ち上がって、ベッドの脇にあったプラスチックの丸い箱を持ってきてくれた。入れやすいようにという配慮なのか斜めに傾けようと屈んだところで、彼はあたしが握り潰している紙切れの正体に気付いたらしい。笑顔が消えた。
「…………すみません」
 申し訳ありません、涼宮さん。狼狽を無理に飲み込んだ声は上ずっていて、笑ってばかりの口元は力なく閉じられている。手のひらをさらに強く握ると折れた紙が小さく軋む。そのわずかな音におびえたように、古泉くんは身じろぎをした。
「こんなものもういらないでしょ。いらないなら、さっさと捨てるわよ」
「涼宮さん、」
 通学路でたまたま会った長門さんが、余ったからとだけ言って短冊をくれた。なんで受け取ったのかは忘れた。黒いマジックのあたしの字は、二か月近く経ってもかすれてもいない。真っ白のレシートと反対だ。向かいの席にはホットオーレ、あたしはダージリンティー、古泉くんが十二月二十日に何を頼んだかは覚えていないのに、今年の初めのホットココアを飲む朝比奈さんを見る古泉くんの笑顔のことは頭の隅にまだ残っている。我ながらバカみたいだと心底思う。
「だって、ここに神さまはいないじゃない」
 振り上げたあたしの手首を古泉くんの冷えた手が掴んだ。その冷たさになんだか頭の芯まで震えて、力の抜けた左手で、右手を捕まえる彼の手首を捕まえる。すがりつくみたいに強く、いっそ脈を止めるように。
「涼宮さん、僕は」
 あたしはここにいるけれど、それを描いてくれた彼は、どこにもいない。この世界はありふれていて、不思議なことはもう起こらない。願い事はかなわない。だからいらない。『好きになれますように』。それは諦めるのと何が違うんだろう。
「僕は、」
 願い事のない古泉くんは、この世界で何を諦めたんだろう。たとえば誰かを、自分で微笑ませることだとか。