よとぎばなし

人生で初めて作った本でした
いっぱいいっぱい感がひどすぎて未だに直視できない…

2009.11.01.

寒い部屋とコーヒーの話

 彼のくたびれた鞄が無造作に放られて、勢いのままフローリングを少しだけ滑って壁際に止まった。掃除機をかけておくべきだったと思って、つい先日も同じようなことを考えたことを思い出す。夏に輪をかけて冬はなかなか窓を開けないせいか、部屋の中では空気も埃もこごったように、凍ったような温度で底のほうに停滞している。
 マフラーだけを億劫そうに外した彼が、コートを着たままいつものように我が物顔でソファに陣取った。腕を上げて大きく伸びをすると、わざとらしいくらい大仰に息を吐く。見るも無残な大あくびをひとつ。
「――やっと終わった! さすがに疲れたぜ。ようやく明日は休みか……」
 同じく疲れた笑顔だけでその言葉に同意を示しつつ、僕も彼の鞄の横に自分のそれを並べて置いた。脱いだ白いコートをとりあえず丸めて上に乗せると、部屋の寒さに今更ながら鳥肌が立った。寒がりな彼が長々と文句を言い出す前に、なにか暖かいものが必要だろう。とはいえ、たった一枚の毛布と壊れたエアコン以外に暖房器具のない我が家では特に打つ手もなく、仕方がないのでキッチンへ向かう。
 さみい、と小さな呟きが耳に届いて振り向くと、先ほどの大儀そうな言葉の通り、彼は背もたれにぐったりと深く沈み込み、またもひどいあくびをしていた。
 部室にいたときよりもさらに気の抜けた彼の様子に、思わず漏れた苦笑を噛み殺す。緑茶とココアとコーヒーと、まだ残っていれば紅茶と、一体どれが彼の気に入るのかとぼんやり考えながら、狭いシンクでやかんに水を張っていく。
「お疲れさまでした。どうでしたか、手応えは」
「……お前なあ。頼むからもう聞いてくれるな」
 肩と首をばきばきと回していた彼は、僕の質問にふてくされたような声を上げた。放課後にも涼宮さんに散々お小言を頂いていたようだから、確かにあえて聞くまでもないことではあった。涼宮さんの絶え間なくほとばしる推測に対して、いくら彼が弁明する隙も与えられていなかったとはいえ。
 学年末テストでずっこけて追試だなんて、そんな間抜けで詰めの甘々なヤツはSOS団の赤っ恥よ! 一年間も学んできたのに全然まったくなんにも成長しなかったってことじゃないの! 団長のお言葉は至極ごもっともなものだったので、僕が助け舟を挟む余地もなかったのだ。
「まあそうおっしゃらず。あなたには涼宮さんが直々に特別講義をしてくださったのですから、ある程度の結果は出ていると僕も思いますよ」
「……だといいがな。正直もう考えたくない」
 水道水でいっぱいになったやかんを火にかけて、ついでに直火に手をかざしてみたが期待したほど暖かくはなかった。当たり前だ、コンロが熱するのは飲食物であって人間ではない。やはり沸くまで大人しく待っているしかなさそうだ。
 鳥肌の立った両腕をさすりながら居間のほうへ戻ってくると、コートを脱いだ彼もソファの上で同じような動作をしていた。こちらに気付いて顔を上げた彼と目が合って、合った瞬間どちらもぴたりと動きが止まる。空き巣の現行犯を目撃した、みたいな表情を向けられて、僕も自分の失態に気付く。
「やっぱりお前も寒いんじゃねえか……」
 彼はうんざりしたしかめっ面、僕は情けない作り笑顔へ。今まで散々はぐらかし続けてきたのに、この部屋の寒さを自分から認めてしまうとは、言い訳のしようもない。僕が立ったまま笑みを引き攣らせている間に、彼が腕組みをして口を開いた。前置きに盛大な溜息まで吐かれる。
「おい古泉。これで何回目だか分からんが、俺は親切だからもう一度だけ言ってやる。この部屋は寒い。寒すぎる! エアコンを直してストーブを買って、毛布を増やしてこたつを一式揃えろ!」
 彼の黒い目が完全に据わっている。どうやってもありがたいお説教が長引くらしいことを悟った僕は、とりあえず笑みを薄めて神妙に縮こまる。正面から彼と向き合うのはできれば遠慮したいので、彼が座っているソファの目の前の床、彼の足の左隣に座り込んだ。
「そもそも今が何月だと思っていやがるんだ。分かってんのか、二月だぞ二月! 立春なんぞ知るか、完璧に真冬だ。俺は秋のうちから……いや、夏のころからさんっざん言ってきたよなあエアコンの修理をしろと。そういやお前、結局あのまま扇風機のひとつも買わなかったんだよな?」
「え、……はあ」
 夏に彼がここへ来たことなどあっただろうか。扇風機の話なんてしたことがあるだろうか? はっきりとした記憶がない。終わらない夏休みの強い日差しと濃い影も、今となってははるか昔のことのように思える。
 時間が経つのは簡単だ。ソファの前面に背中を預けて、足を崩して膝を立てる。いつの間にやらこの場所も、彼が来たときの僕の定位置のようになってしまった。座布団もないこの床の座り心地はとても褒められたものではないというのに、ここから見える家具の配置に、斜め上から降る彼の声に、僕は今やもう違和感を覚えることさえできなくなり始めている。
「……大体なんで外と気温が変わらねえんだよ、壁に穴でも開いてんじゃねえのか? 雨風がしのげりゃそれでいいってもんじゃあないんだぞ、お前は人としてもうちょいマシな生活を送りたいと思わんのか。鳥肌立つほど寒いくせになんでなんにもしねえんだよ。せめて厚手の上着とかなんとかあるだろう…………」
 彼の言うことが、もっともだと思わないわけではない。べつに僕にだって、暖房器具を買うのがどうしても嫌だと言い張る理由はないのだ。ただ、暖かいものがなくたって生きていけることを知っているだけだ。
 たとえば電子レンジがあれば、暖かいごはんは食べられる。インスタントのコーヒーでも飲んでいれば、報告書のまとめも授業の予習もすぐに終わる。それから熱いシャワーを浴びて布団にもぐりこんでしまえば、あとはもう毛布にくるまって眠りに落ちるだけになる。
「……こんな極寒の地で快適な生活を送れるのはシロクマかペンギンかタコ型火星人くらいのもんだろうさ、だが生憎と俺もお前もそのどれでもないんだよ。暖房器具がないとかな、そんな間抜けな理由で風邪を引くのはバカバカしいとお前がひとかけらでも思うんなら、今すぐにでも電器屋に行くべきだ。なんなら付き合ってやってもいいぜ、ポイントカードなら俺が持ってるから貸してやるし……」
 確かに多かれ少なかれ寒さを感じはするけれど、生活するのに支障はない。少なくともこの三年間――四年間、直接的にも間接的にも、寒さが原因でなんらかの問題が発生した覚えはない。真冬日の朝も時間通りに起きられるし、看病してくれる人間もいないのに風邪を引くほど馬鹿でもない。
 立てた両膝を抱え直して、白い靴下のつま先を擦り合わせる。それが無駄なほど冷え切っていることは分かるけれど、体のどこもかしこも似たような温度で、いまひとつ冷たさの程度がつかめない。暖かいものがあるから寒いのだ。もしかしたら、彼がなにも言い出さなければ案外、僕はもうとっくの昔に暖房器具を買っていたのかもしれない。
 彼の演説はまだ終わらない。どうやら議題はいつの間にか、僕の生活水準の話にまで推移し始めたらしかった。
 俺はな、と彼が言う。
「お前がまともな生活してないのは困るんだよ。嫌だ」
 そんなことを言われてもこっちが困る。僕は膝に額をつけて、自分が落とす暗がりの中で目をつむる。
「お前が自分のこともろくに構わんから、俺がこうやってここまで来てやらなきゃならなくなるんだ」
 彼は自分がなにを言っているのか分かっているんだろうか。それが僕の心臓にとってどういう効果を持つのか、本当に理解しているのだろうか。
 意味のまとわりつく言葉ではなく、いっそ彼の声音だけを拾えたら楽なのにとすら思う。耳に心地よい低音の連なりと、懇々と諭すような不定形のリズムだけをずっと覚えていられたら、それだけで本当は充分だというのに。
「……おい、聞いてんのか?」
 伏せた頭が後ろから小突かれる。
「聞いてますよ」
 うつむいたまま、努めて朗らかな声を出した。顔を上げて、たぶん彼からは見えないだろうが笑顔を作る。不安定な思考をまばたき二つで掻き消して、慣れ親しんだ微笑みを戻す。
「この返答も何度目になるのか分かりかねますが、毛布が一枚あれば案外なんとかなるものですよ。必要のないものはいりません。地球環境にも優しくて結構なことではないですか」
「よくねえよ。今だって寒いんだろうが」
 背後にいる彼の表情は知らないが、間髪入れずに飛んできた返事は呆れと苛立ちだけでできているように感じられた。彼はいつもそれらの感情を隠そうとすらせずに、そうするのがまるで当然であるかのように、ためらいもなく僕にぶつける。
 膝を抱える僕の両手は、妙に力を入れすぎたのか、色を失ってひどく冷たかった。彼なりに僕を心配してくれているのは分かるけれど、寒がりなのはただ彼だけで、僕ではないのに。
「でしたら、寒さをしのげる暖かいご自宅へお帰りになってはいかがでしょう」
 ゆっくりと振り返って、とっておきの笑顔を向ける。表情を歪めた彼がなにかを言おうと口を開いた瞬間、キッチンから甲高い笛の音が響いた。ようやくお湯が沸いたようだ。


 ぎこちない空気は時間とともにいつものそれに戻ったけれど、部屋の空気は相変わらずでそうやすやすと暖まることもない。
 右肩越しに腕が伸びてきて、ローテーブルにマグカップがごとりと置かれた。両手で包み込んだカップの中のコーヒーに、歪んだ彼の姿が映る。安物の陶器は熱を帯びて、僕の指の先にまで、温度を持った血を通わせる。口をつけるたびに暖かさがなくなっていくのが嫌で、僕のカップの中身はまだほとんど減っていない。
「お前、俺のココア全然混ぜなかっただろ」
 黒い水面に浮かぶ彼が、不意にこちらを覗きこんだ。思ったより近くで聞こえた声に少し焦って顔を上げると、彼はソファに浅く腰掛けて、気だるげに足に肘を立てて頬杖をついていた。前傾姿勢の彼の頭は、床に座る僕の目線より数センチだけ上のところにある。近距離から呆れきったような瞳でじっと凝視されて、とっさに返答に窮した。
 彼の目を見返したまま黙り込んだ僕に、彼はさっき置いたマグカップを視線だけで指し示した。にらみ合いをせずに済んだことに内心胸を撫で下ろしつつ、素直に従って首を伸ばして覗いてみる。なるほど、飲み干されたマグカップの底のほうに、ねっとりとした黒いものが溜まっていた。
「おや、これは失礼を。いつもよりはちゃんと混ぜたと思ったんですが」
 溶け残ったココアのもとのかたまりだろう。賞味期限は確か大丈夫だったはずだし、貰い物でそれなりに高級なもののはずだが、なんとも無残な状態だ。
「いつもはこれより酷いのか……」
 どうりで妙に味が薄いと思ったんだよ、と眉根を寄せて彼が呟く。大きめの溜息が聞こえてきて、先ほど長々とぶつけられたばかりの、苛立った彼の言葉の数々が蘇る。嫌な予感を覚えた僕は、彼が次の言葉を発する前に急いで微笑みかけた。
「ええと、なんでしたらお湯を足しましょうか」
「いらん」
 にべもない。
「でしたら、作り直してきますよ」
「べつにいい」
 取り付く島もない。
 彼は無表情を崩さない。僕の笑顔はだんだんと力がなくなっていく。両手は無意識にまだ温かいカップを強く握り締めていた。視線を落とすと、揺れる虚像の頼りない僕と目が合った。
 ゆっくりと頭を上げて、神妙に彼を見る。
「……コーヒー、僕の飲みかけでよろしければ……」
「飲む」
 彼はこともなげに頷いた。
 ほっとした勢いで、手の中のそれをなんの疑問もなく彼に差し出す。受け取って一口だけ飲んだところで、彼がいきなり顔を伏せたかと思うと、肩を小刻みに震わせ始めた。
「あ、それブラックなので……大丈夫ですか」
 返事はない。代わりに押し殺し損ねたような息の漏れる音が聞こえる。
 その状態が数秒間続いて、ようやく僕が彼の意図を把握して頬が熱くなるのを自覚したころに、彼がにやけきった顔を上げた。呼吸を整えながら唇をひきつらせてまだひいひい言っている。なんとなく濡れさえしている目元を袖口でぬぐったかと思うと、僕の顔を見てまた盛大に笑い出す。
「じょうだん、冗談に決まってんだろ」
「…………あなたのは分かりづらいんですよ」
 下手な悪態を返してみても、苦笑以外に純粋に笑っている彼が物珍しくて、なんとなく僕まで笑えてきてしまう。冗談だと言いながら中身が半分以下に減ったコーヒーカップを手渡されたら、からかわれたことを責める気力もどこかへ失せてしまった。
「あのなあ、ココアがよく混ざってないくらいで俺がそんなに怒るわけねえだろ」
「……そうなんですか。……それは、よかった」
 僕は戻ってきた手元のカップに目を落とす。空気にかすかな甘さが混じっている気がしたが、ブラックコーヒーを二口啜ると掻き消えた。喉を通ってすべり落ちていく熱源は、体の真ん中まで届くとじわりじわりと霧散する。熱のまわりきらないつま先はまだ少し冷たいけれど、それでも僕にとっては充分なあたたかさだ。
「お前な、俺をなんだと思ってんだ」
 軽く丸まった彼の手が伸びてきて、僕の頭をこつんと叩く。すみませんと呟きつつも、緩みきった口元がなかなかもとに戻らない。
「ばか、お前を構いに来てんだって言ったろ」
 さも当然とばかりに彼はそうのたまって、こぶしをひらくとあやすように僕の頭をなでる。体のいろいろなところにおかしな力が入っていて、どうにもその抜き方が分からない。肩をすくめてされるがままに下を向く。
 そのうちソファに座っている彼の上半身がずるずるともたれかかってきて、抵抗しようと思ったときには後ろから頭を抱きこまれるような形になっていた。首が絞まるし正直重たい。
 ぎゅうぎゅうと引っ付いてくる彼は、楽しそうに耳の上に唇を押し当ててきた。
「……なあ、お前がかわいいから聞くんだが、ぜんぶわざとだったんじゃねえだろうな」
 さすがにそこまでするほど幼稚でも巧妙でもないつもりだし、大体あなたにそんな面倒なことをしても僕にはなんの得にもなりません。ということを彼はあまり分かっていないらしい。
「さあ、どうでしょうねえ」
 いつものように適当に笑って、動かせない首を無理矢理かたむける。彼は不服そうに息を吐いて、なにも言わずに耳の裏から頬へと舌を這わせ始めた。コーヒーで温められた口内も外側はやはり冷たいままで、ざらつく彼の舌はまるで火箸のように熱い。
 そういえば、寒い寒いと散々文句を言っていた彼がその点に関してはぱたりと黙ったのを見るに、彼のココアも味はともかくとして温度は間違っていなかったらしい。今度はカップをぐるぐる揺するだけでなくて、スプーンかなにかを使ってよく混ぜてみることにしよう。
 そうやって僕ができるだけどうでもいいことを考えようと努めているあいだにも、靴下を履いた彼の足がゆっくりと、シャツとセーター越しに僕の下腹をこすりまわる。丸めた足の指で強く引っ掻いたりやわく握ったりするように動かされると、どうしようもなく体の奥がくすぶりだす。頬を辿って降りてきた舌は執拗に唇のはしをつついていて、どうにかして中に入ろうと忙しない。
「あの……すみませんが、」
「やめねえ」
 思ったよりも余裕のない声が返ってきて、すぐに今度は鎖骨のあたりに食いつかれる。手放すタイミングがなくて僕はまだ陶器の器を握り締めたままなのだが、彼は待ってくれる気はなさそうだ。とりあえず手が届く範囲でぶつからなさそうなところに置くことにして、自由にした腕を急いで胸に沿う彼の手に重ねた。


 床から拾い上げたカップはとっくに熱をなくしていた。底に少しだけ残っていた濃い液体を煽ってみると、明らかに苦味が増していた。ようやく空になった器を、テーブルの上の彼のマグカップの横に並べる。
 固い床に長く座っていたのと、おかしな体勢だったせいで少しだけ腰が痛い。いいかげん夕食の準備でもしようとキッチンに向かいかけてから、彼が今日もここに居座るつもりなのか聞いていなかったことを思い出した。
 ソファを振り返って、はしっこのクッションを枕代わりにして横になっている彼を見下ろす。疲れていると言っていた言葉に嘘はなかったようで、寝顔はとても安らかだ。膝をついてしゃがみこみ、申し訳ないが肩を小さく揺すってみる。
「もうじき夕飯の時間ですよ。今日は食べていかれますか?」
 ぼんやりと薄目を開けた彼は、まぶしそうに目を細めてまたすぐ閉じた。よほど眠たいのか寝ぼけているのか、しばらく待っても返事はない。
 どうしようか。彼の気の抜けた顔を前にしばらく考え込んで、いびきが聞こえ始めたところでもう少しだけ寝かせておくことに決めた。たぶん、夕飯くらいは食べていってくれるだろう。
 この家唯一の耐寒具である毛布を取って戻ってくると、男子高校生が寝転がるにはあまり余裕のないソファの上で、彼は寒そうに体を小さく丸めて眠っていた。しあわせそうだった寝顔もさっきと打って変わって、不機嫌なときに彼がよく見せる表情に似たものになっている。
 ふと見ると、窓の外はいつの間にか真っ暗だった。もともと寒いこの部屋は、日が落ちてからはさらに急激に冷え込む。とりあえず毛布をかけてみたが、こんなものでそうそう体があたたまるわけもない。
 彼がつらつらと並べ立てた親切な助言を断片的に思い出す。この部屋は寒すぎる。なんでなんにもしないんだ。風邪を引くのはバカバカしい。まともな生活。
 少しのあいだ逡巡してから、もう一度彼の肩を揺さぶった。今度はさっきよりも腕に力を入れて、彼の名前を何度か呼んだ。
「……なんだ、」
 目をしばたかせて大あくびをひとつ。
「あー、――今、何時だ」
「今から帰られたら、ちょうどご自宅の夕飯に間に合うくらいですよ」
 腕時計を示して微笑んでみせると、彼は寝ぼけ眼のままで不思議そうな顔をする。
「……は? いや、俺今日泊まるぞ」
 上半身を起こして背もたれに寄りかかると、彼はずり落ちた毛布を寒そうに肩まで引き上げた。またひとつあくびをして、眠気を払うように目元をごしごしと擦る。僕が言葉を探していると、またなんか仕事でもあんのか、と低い声で尋ねられた。
 首を横に振って笑って、僕は自分の腕をさする。
「……帰ったほうがいいですよ。やっぱり寒いでしょう、ここは」
 僕の提案を聞いた彼は、唇を引き結んで、僕の目をじっと見る。見返す僕は耐えられずに、そこからわずかに目を逸らす。彼は軽く溜息を吐いた。いつものように適当な調子でのんびりと言う。
「帰らねえよ。泊まるっつってんだろ」
「……ストーブもこたつもありませんよ」
「知ってる」
「……風邪を引きますよ」
「それはお前も一緒だろうが」
「……あなたは寒いのが苦手でしょう」
「そうだな、寒いのは好かん。お前が寒いのもいけ好かん」
 僕は黙る。彼も押し黙る。しばしの沈黙が場を満たす。
 タイミングを見計らい、僕は床からすっと膝を離して、彼が座るソファの上に体ごと乗り上げた。毛布のはしに膝を立てて、腕を伸ばして壁に手を突く。若干ひるんだ彼の耳元に顔を寄せて、細い息を吹き入れる。
「では、こういうのはどうです?
 この家が冬に備えることもなくずっと寒いままなのは、他でもないあなたが寒がりだからなんですよ。あなたにとっては極寒の地でも、僕にとってはストレスにならない程度の適切な範囲の気温です。僕の言いたいことがお分かりになりますか?」
 ささやくようにうそぶいて、にっこりと笑ってみせる。至近距離で見る彼の瞳はとても綺麗で、一瞬だけ揺らいだかと見えた次の瞬間には氷のように冷え切っている。その温度が僕に向けられたものだと思うと、恐怖に近い寒気がぞくぞくと背筋をなぞった。彼はなかなか口を開こうとしない。ただ僕を見ているだけだ。
 またもやじれた僕が目を伏せた途端に、待ち構えていたように背中に彼の腕がまわった。
「ひとのせいにすんな」
 低空飛行の声が突き刺さる。
 斜め上から抱き締められると、彼がかぶっている毛布がちょうど僕の体に巻きつく形になる。彼の体温がかすかに染みた毛布の角が背中に当たって、その上から彼の手が僕をさするように上下に動く。
「どうしても帰れってんなら、お前も俺んちに連れて帰るからな」
 毛布越しに僕を抱く彼の体温も、さして僕より高いわけではないようだった。どちらかというと、たぶん冷たいほうに入るだろう。この家は本当にちっとも暖かくないのだ。
 けれど、今は寒いとは思わなかった。
「……それじゃあ、夕飯には、なにかあたたかいものを作りますね」
 僕も彼の背中に両腕をまわして、寝かしつけられる子供みたいに強く抱きつく。寒さは感じないのに、体のどこかが震えている気がした。

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△top

真冬の夜の夏空の夢

 夜のあいだは穏やかに過ぎていく。
 時計の針が進む音は、途切れることなく世界をくるくるまわし続ける。防音設備なんてないこの寛容なアパートでは、薄い壁越しに他のだれかの存在を常に感じることができる。
 隣からかすかに漏れるテレビの音は、毎週いつも同じ番組。シンクに落ちる水の音は、一旦気になり始めたらなかなか眠れない。この寒い季節になにを考えているのか、だれかが勢いよく窓を開ける音。
 夜更けにどこかのドアが軋んで、続けて階段を降りていく足音になんとなく親近感が湧く。僕が立てる音もきっと、他のだれかのもとへと届く。完全に静謐な暗闇が、ここまでやってくることはない。
 もう少し耳を澄ませば、夜鳴きする虫の声や前の通りをバイクが走っていく音、夜中に遊ぶ若者たちの笑い声、――頭の中のだれかの言葉、さまざまな遠い振動たちが、僕の鼓膜をあえかに揺らす。
 それらのささいな物音は、僕にはいっそ甘やかでさえある。そんなものを背景に敷けば、僕は僕が息を吸って吐く音を、確かに聞き取ることができる。すべてを飲み込むような沈黙も、すべてを薙ぎ払うような轟音もみな、記憶や夢の境を超えて、ここまで追ってくることはないのだ。


「涼宮ハルヒの心理状態と、僕のそれには事実なんのつながりもありません。確かに我々能力者は、彼女の精神的な動きの変化をいち早く察知することができます。しかしそれは、――それこそが彼女が僕たちに与えた能力ではありませんか。我々の能力は不足することこそあれ、持て余すほど過剰になった例は過去一度も挙がっていません。僕は対神人用の戦闘要員であって、精神感応のほうは完全に専門外ですよ。
 そもそも三年前にあの日が来るまで、それ以前の僕は――それ以前から世界が存在していたと仮定した場合の話ですが――涼宮ハルヒという少女の存在すら知らず、世界の命運うんぬんなどともまったく無関係に、ごく一般的な暮らしをしてきました。そう記憶しています。それまでは、少なくともあの日までは確実に、彼女の存在がなくとも、僕の精神は僕だけのものとして成り立っていたはずなんです。
 ……ええ、もちろん今も」


 部屋の中は真っ暗でなんの光源もないけれど、完全な黒にはなりきらない。薄いカーテンと薄汚れた窓ガラスを隔てただけの向こう側には、夜更かしの街明かりが点々と、絶えることなくどこまでも広がっている。僕ひとりが目を閉じても、何時になっても眠らない街の電源は落ちることがない。
 ものものの隙間に落ちるおぼろげな影を見つけられれば、月や太陽の遠い熱量を思い出すことができる。しばらく待って目を凝らせば、家具と空間の境目が見えるようにもなる。そうすれば、眼前にかざす自分の手のひらが、暗闇の中に溶け消えてしまうこともないのだと分かる。
 暗いところは怖くない。それはただの夜の訪れで、空の上には月と星と居残った雲とが動くこともなく存在している。灰色の奇妙な天井は見当たらない。まぶたの裏には眠りのための、ゆるやかな黒色だけが映る。


「今もです。今までも、今も、これからも、僕の精神と彼女の精神は一切つながりを持ちません。ああ、それは、涼宮ハルヒの近くに置かれて直接的な接触を続けている以上、北高への転入前よりも具体的に涼宮ハルヒの心情を理解することができるようになったと、これについては否定しませんよ。事実ですからね。
 しかし、だからと言って彼女と僕とのあいだに特別な関係が構築されたわけではありません。彼女は僕を他の人間と比べて特別視しているわけではない。それは我々がいちばんよく分かっているはずでしょう? 涼宮ハルヒは我々を選びはしなかった。彼女が僕ひとりに対してなにかを想うことなど、あるわけがないんです。たとえその……SOS団の団員、仲間の一人として、周囲の一般生徒よりも気を配られているとしても、それは僕個人と彼女の関係にはなりません。団員と団長、ただそれだけなんですよ。
 実際、彼女が僕を会話の相手に指名してきたとき、その話題はすべて『鍵』について、もしくは団の活動計画についてのものでした。涼宮ハルヒは、僕個人に興味を抱いてなどいません。ですから、僕の立場は他の能力者とほとんど同じです。僕だけが例外になることなどありえません」


 窓を閉め切っていても、年明けの寒さはこの部屋の中にまで忍び込んでくる。ましてや夜ともなれば冷え込みはさらに厳しく、布団の下でつま先が凍りつくような温度になる。
 我が家で唯一の、彼曰くどう見ても間に合っていない暖房器具である毛布を肩の上まで引き上げる。できる限り体との隙間をなくすようにすると、閉じ込められた空気が少しだけ重たくなる。手の甲に滑る毛布の感触がやわらかで心地いい。
 ひとりで眠るベッドは広い。広いということに気がついたのはいつごろのことだったろうか。寒がりの彼はいつも、一枚しかない毛布をほとんどぜんぶ自分のほうに持っていってしまう。彼としては寝ているあいだに無意識に手繰り寄せているだけらしく、朝になって僕が壁際で震えているのを見ると呆れたように怒り出す。理不尽だとも思いはするが、そういうところが彼らしいと笑ってしまう自分にも、ひどい違和感が拭えない。
 寝返りを打ってもだれかとぶつかることもない。暖かい毛布は僕につられてずるりと動く。四方を囲む壁のこちら側にいるのは僕ひとりだけだけれど、そばにだれもいなくても、どこかにだれかがいるのが分かるなら、夜は穏やかな眠りをくれる。


「――それでは、君の『鍵』に対する過剰な好意は君個人の感情だということかね」
 発言を終えて座り直そうとしたところで、斜め向かいの太った男がさも愉快そうに、不愉快な笑い声を立てた。周りの数人も男に同調するように、こぞって気味の悪い好奇の目を僕に向ける。
「そうだろう? 君の主張が正しいとすれば、君は君自身の意思で『鍵』に過剰な接触を図り、あいだに『神』を通さないごく個人的な関係を築いていると。そういうことだろう」
 ずらずらと並ぶ下卑た笑いに怖気が走る。机についた手のひらが湿って、握り締めると指の先が冷たい。
「あなた方が一体どのような誤解をなさっているのかは分かりかねますが、僕は『鍵』である彼に対して思うところなど特にありませんよ。もちろん彼のほうも同様に、僕の存在を重視してはいないでしょう。ある種の信頼関係にはあるのかも知れませんが、それ以上のことは、なにも。皆目検討もつかないお話です」
 言い切って笑う。彼が見たらきっと演技過剰だと首を振られる、そんな光景を思うことすら馬鹿げている。男らの呼気で淀んだ会議室では、文芸部室でいつも当たり前に浮かべている笑みが間抜けなほど場違いのようだった。完全に準備されているはずの反論さえすぐには与えられない。血管をまわった大量の油が心臓に注ぎ込まれているかのような感覚がする。
 たっぷりと間を置いてから、右端の細身の男がにたりと笑った。
「……つまり君は、涼宮ハルヒの『鍵』に対する感情が、君の『鍵』に対する感情に影響したわけではないと言いたいわけだね。涼宮ハルヒが彼に好意を抱くからといって、そのせいで君までもが彼を好きになったわけではない――その感情の持ち主はあくまでも自分自身だと信じている、と、そう主張しているんだね」
 理解者ぶった声が、おぞましくも優しげに僕の喉元にまとわりつく。僕に向けられる何十もの視線のすべてが、得体の知れないなにかの意思を、出来の悪い子供に諭すような色を帯びている。
「僕は、彼に対して特別な感情は。ただの、……ただの、友人関係のようなものです。それだけです」
 唇が小刻みに震えるのが自分でも分かった。
「なるほど。では『鍵』もまた、君に特別な感情を抱くことはないんだろうね。どうだい、そろそろ『鍵』は『神』の好意に応えようとしているのだろうか? 友人であるところの君から見た意見をぜひ聞きたいものだ」


 見渡す限り、世界は一面灰色だ。
 地上にはがれきの山がどこまでもどこまでも続いている。ありとあらゆる建物が崩れ去ったあとなのだ。遮るものがないおかげで、ずっと遠くまで景色が見える。けれど、どれほど目を凝らしても、がれき以外のまともなものは見つからない。動くものが見当たらない。どれほど耳を澄ましても、風の音さえ聞こえない。だれかの足音も呼び声も、なにも聞こえない。
 これは夢だと僕は知っている。見飽きた光景だった。眠ってからまでこんなところに来ることはないのに、現実でなにも起こらなかった普通の日にだけ、ときどき僕はこの夢を見る。
 いつもと同じ、コンクリートの舗装道路がひび割れて砕けた亀裂の手前、歩道のそばの白線の上が僕の初期位置だ。片側二車線くらいの太い道の両脇には、高いビル街の代わりに延々とがれきの山が続く。
 僕はこの場所を夢の中でしか見たことがないが、行くべき道順はいつだって分かっている。分かってしまうのだから仕方がないのだ。だからそれに従って、慣れた夢の灰色世界を歩き出す。
 夢の中の僕は、この夢を最初に見始めた三年ほど前からずっと、中学校の制服を着たままだ。よくある真っ黒に金ボタンの学ランで、胸元に学校名と姓だけがこれまた金色で刺繍してある。本当なら学年ごとに色の違う校章をしていなければならないのだが、探そうとしても見当たらない。中学のころは傍目に分かるくらい一気に背が伸びたから、自分の目線の高さを考えればある程度年齢の見当はつくはずなのに、それも意識しだすと急に判然としなくなる。
 ここは夢の中なのだ。今まで歩いてきた歩道の先が鉄骨らしきもので埋まっているのを確認して、僕は車の一台も走っていない車道へと降りた。大通りから三つ曲がると、半分くらいの幅になった道路からは中央線が消えて、あたりにはビルではなく壊滅した住宅がずらずらと並ぶようになる。かろうじて点々と残っている表札には、小学校のときに仲がよかった気がする友達の名字がいくつも見える。でも、昔自転車をこいで遊びに行った友達の家は、どれもこんなところにはなかった。我ながら分かりやすい夢だと思う。フロイトを呼んでくるまでもない。
 道路の端でゆっくりと立ち止まって、どこかの家の壁のかけらでざらつく足元を見つめる。金メッキのボタンが並ぶ視線の先では、学校指定の白い靴下と履き古しの運動靴が、ためらうように足踏みをしている。
 このまま歩き続けると、そこには僕の家がある。
 何十回と言わず繰り返し見ている夢のはずなのに、今までの何十回と同じように、この先の記憶だけが欠落している。この道の先に僕の家がある、でもそれがこの世界のすべてと同様に崩れ去っていて跡形もないのか、それとも遠く風化した思い出の通りに懐かしさに満ちたままなのか、僕にはまるで分からない。
 きっと、それを確かめればこの夢は終わる。そうだ、この夢はそのためにあるのだから、この先へ行かなければ僕は夢から覚めることができないのだ。


「……先日ご報告いたしました通り、『鍵』である彼は長門有希や朝比奈みくるの協力を得て、三年前の七月七日に、当時中学一年生の涼宮ハルヒと二度ほど接触を行なっているようです。彼の話から察するに、『鍵』が『鍵』たる由縁はここにあると思われます。
 要するに、我々が彼の存在を認識するよりもずっと以前に、『神』はすでに彼を選んでいたのです。もっと正確に言えば、彼は彼女を受け入れることで、『鍵』として彼女に受け入れられたのでしょう。
 さらに、ここからは少々推測を交えた話になりますが、三年前に彼が選ばれたことによって、残りの二人についても結果的に選別が行なわれていた可能性があります。彼は三年前への時間遡行に、朝比奈みくるを伴っていました。当時の涼宮ハルヒも、明確にではないものの彼女の存在を目撃しています。同様に、彼は三年前から現在への帰還に、長門有希の助力を仰ぎました。このとき彼女は異時間同位体である三年後の彼女と同期し、彼の時間遡行時までの現在の事象を知るに至っています。
 つまり、これらの二人は三年前の時点ですでに、主要な登場人物のリストに組み込まれていたというわけです。涼宮ハルヒが新規に部活を設立しようとした際、この二人が真っ先にメンバーとして選ばれたのも当然であると言えますね。『神』と『鍵』の出会いという、最重要とも思われる出来事の裏側に、彼女たちは最初から存在していたのですから。
 話を現在の涼宮ハルヒと『鍵』に戻しましょう。
 あえて僕からの見解を提示するまでもなく、彼と彼女はとうに深い信頼関係にあります。涼宮ハルヒはだれよりも彼を信頼していて、彼もまた彼女のことを理解し、信頼している。……彼女の精神的な変化を察知することにかけては、もはや僕と彼との間に能力的な差異はないのではないかと思うほどです。どちらも素直に心情を相手に伝えるのは不得手のようですが、悲観するようなことでもありません。あとはもう時間の問題でしかないでしょう」


 意を決して顔を上げると、がれきの街の上に広がる灰色の空に星が出ていた。初めて見る光景だ。小学校の社会科見学で行ったプラネタリウムのように、不自然なほど満天の星空。頭の中で星図をまわす。今は真冬のはずなのに、夏の夜空。夏の大三角。天の川、織姫と彦星、ベガとアルタイル、
 ――願い事を書きなさい、と、涼宮さんの澄んだ声。
 灰色一色の世界の中で、二つの星だけが輝いて見えていた。光の中に強い白を持って、呼吸するように瞬いていた。
 視界のすべてに広がる途方もなく大きな夜空の中で、ひしめき合う無量大数の星々の中からでも、僕はそのたった二つの星を探し当てることができる。けれど、僕にできるのはそこまでなのだ。織姫と彦星には届かない、どれほど夜空を見上げても、織姫にも彦星にも、僕はなれない。
 誰の願いを彦星が叶えてくれるか勝負よ! 楽しげな彼女の声が頭の中にこだまする。彼が先日吹雪の館で語ってくれた、三年前の七夕で彼がだれと会ってなにをしたのかという、僕には関係のない大事な話のことを考える。それから、病院のベッドに横たわって目を開けない彼と、かたくなに動こうとしない、寝袋にくるまれた小柄な後ろ姿を思い出す。
 空を見上げながら歩いた、灰色の道路の先には、あるはずの僕の家はなかった。
 少しだけ開けた、小さなグラウンドのようなその空き地には、夏休みに使ったきりの天体望遠鏡と、見慣れたブレザー姿の彼がいた。この夢が始まってから初めて出会った、僕以外に動いている唯一のひとだった。
 彼は僕を見つけて、どこか懐かしそうに苦笑した。手招きされるままに近づいてみれば、学ランを着た僕は彼よりも背が低かった。天体望遠鏡のセッティングは、まだ途中のようだった。
「ずっとお前を待ってたんだ」
 僕が彼を見上げると、彼が僕を見下ろしている。暗がりで、すぐ近くにあるはずの彼の表情がよく見えない。かがんで目線を合わせようとしてくれる、彼の肩越しに星空が覗く。僕が目を凝らしてその中からベガとアルタイルを探し出そうとする前に、頭の上に彼の手がぽんと載せられた。
「なあ、宇宙人っていると思うか?」
 年下の子供に話しかけるような調子で、彼はやわらかく語尾を上げる。肯定しようと僕が彼の目に焦点を戻した途端に、彼の大きな手のひらが、僕の髪の毛をぐしゃぐしゃにかきまわす。思わず僕が笑い出すと、彼は楽しそうに「未来人は?」質問を重ねた。僕は大きく頷いてみせる。
「――じゃあ、超能力者は?」
 僕が返事をするより早く、彼の唇が言葉を塞いだ。まぶたを閉じてもう一度ひらくと、背景の夜空が急激にぼやけて歪み始めるところだった。明るい星たちの光は溶けるように消えて、元のように灰色の天井が空を覆いつくしていく。
「お前もそこにいたんだよな」
 黒い学ランの肩を掴む彼の手に、少しだけ力がこもる。あいたかったな、と、彼が優しげな声でかなしそうに笑った。


 目を開けると、暗闇だけが広がっていた。汗ばんだ額に当てる自分の手と、天井の境目さえも分からない。カーテンの向こうの街は死んだように静まり返って眠っている。ましてや夏の星空など、どこにも見えるわけがなかった。
 喉の奥にこびりつくような、深い呼吸の音だけが聞こえる。皮膚の内側の音が大きすぎて、隣からの物音も遠くからの雑音も、僕の耳まで届かない。汗で湿った毛布から逃れたくて、ベッドの縁へ寝返りを打つ。体中が熱くて仕方がないのに、すがり合わせた両手には温度がなかった。まだはっきりしない頭で、広いベッドにだれかを探す。無意識に吐き出した彼の名前を呼ぶ声は、上擦っておかしなほどに幼く聞こえた。
 ――三年前の七夕の日には、僕はひとりでどこにいたんだっけ。なにをしていたんだっけ。
 だれの体温も見つからなくて、重たい頭をシーツにうずめて息を殺す。眼球の裏側に熱が溜まって、強く閉ざした瞳が潤んだ。真っ暗で音のしない世界の中、穏やかに過ぎていく夜の隙間に、ただ僕だけがひとりきり、ずっと取り残されている。

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