ブラックアウト

「……もう帰りましょう、涼宮さん」
 恐る恐る肩に手を置いてみても、彼女が振り返ることはない。埃っぽい部屋の入り口に立ち尽くして、真正面の窓をまっすぐに見つめている。きっと彼女が見ているのは窓の向こうではなくて、その手前に置き去りにされた古めかしいパソコンの後ろ姿で、本当はそれでもなくて数時間前までここに存在していたはずの、今はどこにも見当たらなくなった男の姿なのだ。
 瞬間の記憶は曖昧だ。それは僕も彼女も、彼女たちも同じだった。とうに下校時刻を迎えて閑散とした他校の旧校舎の中で、自称異世界人かなにかとかいう男の服を分け合って着ている僕ら二人は、たぶん同じ思いを分け合うことさえもできていない。我ながらひどく滑稽で愚かで、簡単に日が落ちた年の瀬の夕方の寒さが、文字通り強烈に身に染みる。
「外、真っ暗ですよ。これ以上遅くなっては危ないですし」
 彼をもう一度探すにしたって、僕らにはなんの当てもない。長門有希という無口な少女も朝比奈みくるという幼げな先輩も、一通りの話し合いと不毛な捜索を終えてなお諦めようとしない涼宮さんに困ったような顔をして、それから結局なすすべもなく下校していった。鍵はそのままでいいから、とだけ長門さんは僕に告げて、彼と面識があったはずの『こちらの』長門有希としてなにか思うところを口にすることはなかった。長門有希、宇宙人、有機生命体との接触用に情報生命体によってつくられたヒューマノイドインターフェイス? いなくなる直前の彼に突き返されたくしゃくしゃの紙を丁寧に広げてたたみ直す小さな手は、いっそ気の毒なほどに震えていた。廊下を静かに去っていく彼女はただの小柄な他校の女子と変わりなく、正直に言うならその後ろ姿は失恋だとか喪失だとか、そういった類のものに打ちひしがれているようにしか見えなかった。
「……きっともうすぐ見回りの人が来ますよ。咎められたら面倒でしょう」
 返事はない。彼女はただひたすらに、彼が最後に立っていた場所を見据えている。普段まっすぐに下ろされている長く綺麗な黒髪が、今は一つにまとめられて、白いうなじと赤い耳を凍った空気のもとにさらけ出している。着替えの最中に聞こえていた彼の言葉をなんとなく思い出して、それに従う彼女の笑顔を克明に思い返して、僕は彼女の肩に添えた手にやんわりと力を加えた。
「帰りましょう、涼宮さん。ここは僕たちのいるべきところではありません」
 白いシャツ越しに、薄い肩がほんのかすかに振動する。溜め息を吐く深い音、彼女の頬の向こうに呼気が白く濁っている。
「……ずるいわ」
 押し殺した声で、振り返らない彼女が言う。
「ジョンの言ってた涼宮ハルヒが、それがあたしじゃないのは何故? 宇宙人とも未来人とも超能力者とも一緒に遊んで、ジョンまで見つけ出して一緒にいられて、あたしも知らないすごい力を持ってて、――ちっとも普通じゃなく楽しい人生を送ってる、そのあたしが、あたしじゃないのは何故?」
 彼女がこちらを見なくても、どんな顔をしているのかは分かる。きっと誰よりも彼よりも僕だけが、嫌気がさすほどによく分かる。春も夏も秋も冬になってもずっと見てきた、かなしそうな彼女の表情なら何種類でも知っている。
(あなたが謎の転校生ね、ずっと待ってたのよ!)
 新緑のころの彼女の笑顔に宿っていた光をそのままにできなかったことも、今日一日で一瞬にしてもたらされたそれが、僕の知る今までの彼女のすべてを掻き集めたよりもはるかにきらきらしたものだったことも、彼が、彼の言う世界の、神さまのような少女へそれを根こそぎ持ち帰っていってしまったことも。それでも彼女の嬉しそうな瞳が一等星みたいに綺麗だったことも。
「こんなのは嫌よ。あたしは嫌。なにも変わらないままなんて嫌」
 ぜんぶ分かっている。僕はこのまま肩を引き寄せて、彼女の小さな体を胸におさめてしまえばいいのだ。そうしたらきっと、存在しないはずだった風穴を通り抜けてくる冷気から彼女を守ることが、なんの力もない今の僕にだってできるはずなのだ。
「この世界は、……この世界では、違うんですか」
 涼宮さん、と呼ぶ声が喉を締め付けて、届くところまでひろがらない。ハルヒ、と感情に満ちた声で彼女をそう呼び捨てた、彼の姿が亡霊のように窓の前に浮かぶようだ。彼が僕に吹き込んでいったことが本当なら、異能の力を持った向こうの僕になら、彼女を理解し彼女を救うこともできたんだろうか。彼女の背中、を眺めて横で同時に肩をすくめた、得体の知れない男の懐かしげな表情をふいに思い出したら無性になにかが怖くなった。
「違う」
 細い首が何度も横に振られる。それにつられて揺れる黒髪が数本、僕の手の甲を掠る。
「間違ってる」
 傲然とした普段の彼女にはとても似つかわしくない、ささやくようなか細い声だった。泣き出す寸前のただの女の子でしかない彼女の後ろ姿が、さっき見たばかりの長門さんのそれと重なる。ぐしゃぐしゃの白い紙を差し出す彼の、旧式のモニタに見入って僕らのことなんて視界に入れもしない男の、輪郭を鮮明にしたくなくて奥歯を噛む。
「……そうですか。涼宮さんもまるで、彼みたいなことを言うんですね」
 掴んだ肩がびくりと跳ねて、固まった手のひらから感触がすり抜けた。支えを失った僕の腕は冷えた空気を切って落ちる。
「じゃあ、古泉くんはどっちがいいってのよ」
 かつ、かつ、かつ、とローファーの底が薄汚れた床を蹴る。本棚とテーブルしかないがらんどうの部屋の中央に立った涼宮さんは、長いポニーテールを翻すようにくるりと振り返った。背景には窓の外、冬の夕、蛍光灯の古ぼけた明暗を帯びた、四角い大きなコンピュータ。彼をさらったその機械には、なんの種も仕掛けもなかった。僕の呼吸は白く濁る。上向かない視界は半袖のシャツが覆う胸元で途切れて、彼女の瞳を捉えない。
「こんななにもない、真っ暗な世界なんてつまんないって思わないの? 頷いたじゃない、あなたが謎の転校生だ、って。だからあたしは古泉くんも」
 彼女の声はどこか空虚で呆然としているように思われたけれど、それはただ僕の中にもうそんな感覚しか残っていなかったせいだろう。今までずっと背中を預けていた頑丈なものが、勝手な信頼で振り返らないでいるうちに、いつの間にか消え去ってしまったようだった。なにを間違えたんだろう。なにが間違いなんだろう。ここにはなくて、彼女の焦がれる場所にある、彼が示して取り上げていった正解が、どうして僕たちにはないんだろう。
「涼宮さん、……僕は、」
 彼女の足元に溜まる影は、僕の下に張り付いているそれとつながらない。黒ずんだ蛍光灯が落とす光もくすんでいる。彼女の細い体の向こうには日が落ちた後の一面の黒が窓越しに広がる。最初からずっとこうだったろうか。あの春の日に出会ったときから。
「…………僕は」
(……正気か)
 乾いた唇を開いた実感はすでになかった。言葉が音を持つ前に、すべてが真っ黒になっていた。めまい。立ちくらみ。暗転。幕が下りた。暗い。なにもない。なにもかもがなくなっていく。違う。初めからなにもなかった。意識にノイズ。雑音が酷い。記憶と実感が片端から失せていく。思考が途絶する。消える。
(古泉くんも、あたしと一緒なんじゃなかったの?)
 なにも見えない。もうなにも聞こえない。彼女の声も聞こえない。彼の声など思い出さない。
 ――僕は、こんなふうにこんな世界で、僕があなたを救いたかった。

消失の古泉にくらいキョンを必要としてほしくない