耳鳴りが止まない、と呟く声が聞こえた気がした。生ぬるい布団の下から視線を向けると、窓際に立ち尽くした古泉の横顔には疲れがありありと見て取れた。古泉の手で少しだけ隙間の開けられたカーテンの向こうは、水で薄めた墨のような色をしている。狭い部屋に響くのはカチカチ言う時計の音だけで、まわる針はもうじき夜の終わりを指し示すところだ。しばらくの間、古泉は狭いガラス窓に映る外の景色をぼんやりと眺めていたが、やがておもむろにカーテンを閉じ、俺のいるベッドのほうへと数時間ぶりに戻ってきた。壁にくっつけて置かれたベッドのふちに寝ていた俺は、潜り込んでくる古泉に仕方なくずるずると壁際へ移動する。背中に固い感触がぶつかって、俺は古泉と壁によってこの狭い空間に閉じ込められたことを知る。居心地の悪さに古泉を見れば灰色世界に感情を落っことしてきたかのような無表情で、思わず息を呑んだ俺をよそに古泉は俺の体温の染みたシーツのはしで緩慢に動きを止めた。
「…お前、そっち側でいいのか」
なんとなく落ち着かない心持ちで声をかけると、古泉の黒い瞳は声の発信源がわからないかのように忙しなく暗闇をうろついて、数瞬後に俺の目を見つけると嵌まり込むようにすとんと停止した。腕を伸ばして古泉の冷えた体を手繰り寄せる。されるがまま俺の腕の中に納まった古泉は細く息を吐き出して、それからむずがるように頭を揺らした。温度のない手が俺の背中に控えめに触れて、感触を確かめるみたいに小さく動く。
「だいじょうぶですよ。落ちたりなんかしません」
普段と比べればあまりにもたどたどしい口調でそう返され、俺は大人しく頷く以外になにも言うことができなかった。どのみち今夜はもう古泉の携帯は鳴らないだろうから、俺が馬鹿みたいに頑なに信じている壁と俺との結託にも意味はない。くだらないおまじない、歯磨きを目一杯引き伸ばして古泉を先に壁側に寝かせて、勝手に出られないように俺でふたをして狭いベッドで二人で眠る。今夜のような日には何度だって、俺が起きるか起きないか程度の差しか生まないこの行為と俺の無力さがひしひしと身に迫るだけなのに惰性とはなかなかに抗いがたいものなのだ。古泉の向こうに壁が見えない違和感を無理矢理受け流しながら、俺は小さな声でお疲れさん、と耳元に吹き込んだ。古泉は目を伏せて身じろぎをする。
「…今日の涼宮さんは、なんだか悲しそうでした。苛々しているというよりは、苦しんでいるというほうが近い様子で」
抑揚をつけられないまま言葉がこぼれだしたみたいに古泉はそう話し始めた。覇気のない瞳には疲労の色が濃いけれども、その中には同情のようなものがわずかであるにしろ確実に満ちているようだった。そうか、と沈み込むように相槌を打って、俺は古泉の背後に広がる部屋の暗がりへと目線をずらす。夕方の駅前で解散を告げた、いつも通りなハルヒのチカチカしそうな笑顔がじんわりと浮かんでは闇に溶ける。
「神人の数が少し多くて、ちょっとまぶしいくらいでした。いつもより青くて……」
それで、と言ったきり古泉は続きをしゃべらない。視線を腕の中へ戻すと、伸びすぎた前髪の下で深いまばたきが電池切れ寸前の時計みたいな速度で繰り返されていた。背中にやっていた右手で邪魔な前髪をそっとかきあげてやる。「それで?」口の中だけで消えるような音量でささやいたら古泉はのったりと瞼を持ち上げた。
「……それで。…そう、このあいだあなたと行った、あの古いお店が、ばらばらになるところを、ちょうど目の前で見ましたよ。…ほら、あなたがお冷やをこぼして大変だったあのお店です」
先々週あたりの日曜日だったかの俺の間抜け振りを思い出したのか、古泉はやっとおかしそうな笑顔を見せた。「窓ガラスが割れてテーブルがぐしゃぐしゃで、光が反射して、破片が青くて不思議で綺麗でした。」目を細めてそうやわらかく笑う古泉の頭の中に一体どんな景色が映っているのかなんて俺には分かるはずもなく、適当に引っ張り出した記憶の中には布巾を持ってやってくるおばさん店員の慌てぶりだけがやたら鮮明に残っているのみだった。荒い静止画の中の窓を割ってテーブルを引っくり返そうとしても、そこに巨人の青い照明を足そうとしても、今俺の腕の中にいる古泉をそんな光景の中に入れることができなくて俺はどうにも笑えない。黙りこくっているとやがて古泉がぽつりと、あそこのハンバーグは結構おいしかったですよね、と呟いた。「…そうだな。確かにうまかった」もう一度右手を動かして俺は古泉の頭をぎこちなく撫でる。手首にかする耳がひどく冷たい。大人しく俺の動作を受け入れる古泉は安堵したように口元を緩めて目を閉じている。俺がなんにも共有などしてやれていないことになんて気がついてもいないんだろう。もしもこの耳を俺の暖かいだけの手で塞いでしまえれば、ついでにキスのひとつでもして俺にはお前の気持ちがわかるんだとかささやけば、古泉が止まないと漏らした灰色世界の静寂の耳鳴りもなにもかもごまかしてしあわせになれるのかもしれない。けれども俺は超能力者であったことがないし、今ここではなんの力もないはずの古泉は神さまと世界の命運がどうとか、俺の手は動きを止めないだけで精一杯だった。
「さっき窓から外を見たら、遠くにですけどそのお店がちゃんとあって、少しほっとしたんですよ。当たり前なのはわかってるのに」
古泉は目を閉じたままでゆっくりと話す。頭を撫でる代わりに今度は指先で首筋をくすぐってみると唇の隙間から息がこぼれる。そうかい、と俺の口から出たバカみたいな返事が秒針の動く音に重なった。壁を背に俺は古泉の体をさらに近く抱き寄せる。まだ暖まりきらない体がどこかこわばっているように思われて、俺は首元に頭をうずめて白い肌に唇を押し当てた。ただの感傷かもしれないが。
「…また今度、一緒に行きましょうね。次はみなさんと一緒に行きましょう」
涼宮さん、きっとそのほうが喜びますよね。
嬉しそうな言葉の続きは眠気のせいなのか静かな語調で確かに響いた。近付きすぎている俺には古泉の表情は見えない。相槌を打とうとして、肯定も否定もなにも浮かばなくてただ首筋の薄い皮膚にゆるく噛み付いてごまかした。古泉は吐息交じりのかすれた声で、よかった、と笑う。今日あなたがいてくれてよかったと笑う。
もしも俺の耳をこの手で塞いでしまえれば、もしくは細い体を突き飛ばして俺にはお前の言うことなんてわかんねえんだとか捲し立てることができれば、耳鳴りも世界の命運も超能力も神さまも、くだらないまじないや無力さや息苦しさやついでにこの背中にまわされたままの白い手も、なにもかも振り払ってしあわせになれるのかもしれない。首にくっつけていた頬を離して元の位置へ、腕は放さずに少しだけ距離をとってみると古泉はとうとう完全に目を閉じていて、それでもなにを信じているのか甘えるみたいに俺に擦り寄ってくる。「そうだ、起こしてしまってすみませんでした。こんな夜中に、いつも、」胸元にかかるひどく眠たげな声はそのまま途切れて、薄れるように消えて規則正しい寝息へと沈んでいく。おやすみ、古泉。呟いた俺の言葉にもう返答はない。起こしてしまわないようにそっと、それでもできる限り強く腕に力を込めて抱きしめて、動かなくなった薄い唇に動かない役立たずの唇を重ねる。かすかな呼吸と時間が進む音、閉じられたカーテンの向こうには色のある世界からの薄明かりがにじみ始めている。静寂の中、耳鳴りが俺を襲うこともないままに、夜が明けてしまおうとしていた。
夜明け前がいちばん暗い
徹夜明けの朝焼けは目に染みて眠いよー