でっどえんど

　頭の奥で音楽が鳴っていた。なんの歌だか思い出せないけれど、きっとずっと昔に好きだった曲のような気がする。僕は目を閉じた頭の中でその歌をハミングする。短いおんなじリフレインがぐるぐるずっと回っている。なんだか心地いいのだ。彼の帰ってしまった部屋はもう電気を落として真っ暗だけれど、殴られた頬とその前からできていた背中の傷がずきずきする僕はベッドの上の掛け布団の上にいるのになんだか眠れない。眠れない。力の入らない手の先で音楽に合わせてリズムを取りながら、この夜が明けた明日の朝と放課後のことを考える。一時間目の数学がたぶん当たるなあ。予習をしていないから学校に着いたらすぐやらないといけないなあ。音楽が止まらない。五時間目が体育だったはずだけど背中大丈夫かなあ。それ以前に頬の腫れはどうしよう、ガーゼとテープどこにやったっけ。メロディがぐるぐる歌詞が少し思い出せるような気がしたけれど集中したら霧散した。ああそうだ、そう、子供のころにカーステレオで流れていた歌だ。家族で車に乗るときによくかかってた。思い出せない。他の部分のリズムも覚えていない。使わないことは残らない。僕はかわいそうな人間なんだろうか。彼は僕の頬を拳骨で殴ってそんな感じのことを怒鳴っていたけれど。思い出したら頬の痛みが体の奥まで染みてくるような感じがする。手加減もしてくれなかった。相変わらず好き勝手なひとだなあ。うらやましいなあ。音の連なりがループしてまた繰り返す。寝返りを打って体の向きを変えるとカーテンの下から覗く窓の外の暗がりと目が合った。ああ、外はきっと寒いんだろうな。風の吹かないこの部屋よりももっとずっと。昨日の夜中そうだったみたいに今日も。これまでの幾度かと同じ調子で彼が脱がせた僕の服の下がこの前までなかった包帯と傷で埋まっていたって、それだけなのに彼はなんだか本当に、恋人が大怪我したのになんにも教えてもらえていなかった男のような形相で力の入らなさそうなこぶしを震わせたあとで罵声とともに僕の顔を殴り飛ばした。散々何かいろんなことを言っていたように見えたけれど、僕は痛いのを我慢して頬を引き攣らせずに笑顔を作るほうに熱中していたので全然聞いてなかった。でも彼の怒鳴り声は結構な部分が支離滅裂で聞き取りが難しかったのだから、ヒアリングについては僕に非はないと思う。そうだ、勝手に怒った彼が悪い。背中の傷なら冬服がちょうどよく覆い隠してくれるからラッキーだなあと思っていたのに、頬じゃあいちいちなにがあったのか適当に弁明しなければならなくて面倒じゃないか。明日の放課後部室で会ったらなんて挨拶するのがいいんだろう。彼の考えていることは僕にはほとんど分からない。ああ、お前は俺を何だと思ってるんだ、と彼はそんなことも確か怒鳴っていたなあ。涼宮さんの大事なひとで普通の高校生だと思っていたけれど違ったんだろうか。ひとつ思い出すと芋づる式に彼の怒号が思い出される。さらに頬が痛くなってきたのでリズムを取っていた（はずだがいつのまにか止まっていた）（ので頭の中で僕はまた歌いだしておいた）手と反対の手で触れてみる。当たり前だが腫れている。ああ、氷とか当てておけばよかった。すっかり忘れていた。自分で思うより動揺していたのかもしれない。なんでだよ、なんでお前はいつもずっとこうなんだよふざけんなもういい加減にしろよ畜生、見えねえとこ、俺に見えねえようなところでひとりで勝手に死んじまえ！　なんだ、思ったより僕はちゃんと彼の話を聞いていたんだなあ。いきなり殴ってくるようなひとの唐突な罵詈雑言を記憶しているなんて僕は少しくらい褒められたっていいほど親切で心の広い人間なんじゃないだろうか。だれにも言えないからだれも褒めてはくれないだろうけど。頭の中の音楽が揺らぐ。かなしいなあ。歌詞も曲名もなんにも思い出せなかった。きっとこのままこのメロディもまた忘れてしまうんだろうなあ。かなしいなあ、三年と半年ちょっと向こう側にある世界が色とりどりで楽しかったことは分かるのに、隔てる白壁のような時間の層がどんどん厚く重なっていってなにもかもが抜け落ちていくようだ。喪失感もつかめないまま、なにがあってなにがなくなったのかも気付けないうちにさまざまな景色と記憶が透き通っていく。少しだけ心臓が痛むのを自覚できた。十二歳まで確かに存在していたはずの、まだどうにか残っていた最後の僕を弔いたくなって、僕はかすれたリズムで指を動かしながら目を閉じた。どうか穏やかに、もう僕の中にはない記憶の中で、僕がしあわせなままでいてくれますように。たとえ世界がもう二度と戻らないものだとしても、それとひきかえにならこのままでもいい。

　頭の後ろにあった携帯が脈絡もなく鳴り出した。振り返らずに手をやってそれを見ると、驚いたことにその音はアラームで時刻はいつもの起床時間だった。カーテンの向こうはすでに薄明るい。どうやらあのまま眠っていたらしいことは分かったがとても信じられず、愕然としつつ体を起こす。どけるものがないと思ったら掛け布団は僕の下にあって、人型に体温で温まっていた。どうりで寒かったわけだと目を擦っていると、携帯にメールが入っていることに気がついた。
　彼からだ。明け方三時四十七分にメールを送ってくるほど非常識なひとだとは知らなかった。緊急なら電話するだろうからどうでもいい用事なのは間違いない。気を遣うことに気がまわらない人はうらやましいな、と少しだけ思いながら件名のないそのメールをひらく。本文ぜんぶで四行しかない。殴ったのは悪かった。明日ちゃんと謝りたいから放課後お前んち行くつもりだ。でもお前も悪いんだからいい加減にしとけよ。おやすみ。
　わかりました。おやすみなさい。僕は彼のメールにそう返事を送った。棚を引っ掻き回してようやく探し当てたガーゼとテープでまだ腫れたままの頬を覆う。放課後僕のうちに来ることを僕の了解なしに決めてしまう彼こそいい加減にしてほしいのだが、それを拒むことは別に思い浮かばなかった。彼は最初からずっとそういうひとだし、僕はたぶんこの先ずっとそんな彼のことがうらやましいままなんだろう。三年と半年ちょっと前に世界はそういうものになったのだ。僕が背中に怪我をしてそれを彼に言わなかったからといって彼に殴られたところで、世界はそうそう変わるものではないのだ。ガーゼの上から軽く頬に触れてみる。試しに笑顔を作ってみると痛くてずきずきした。
　それでも昨日考えた通りに、今日の僕はきっと学校に着いてすぐ数学の問題を解き、一時間目にそれを黒板に書き、五時間目の体育の着替えに緊張して、そして一日中頬のガーゼについて何度も何度も同じ言い訳をし、放課後の部室で彼に頬を引き攣らせた笑顔で挨拶をするだろう。おはようございます、とたぶん僕は言う。そのあと彼と一緒にここへ帰ってきて、また彼がしかめっ面で僕になにごとかを諭し続けるのを笑いながら聞く。頬はずっと痛むだろう。案の定昨日あれほど回っていたリフレインは一音も思い出せなくなっていて、心臓の痛みももうどこにもなかった。白壁の向こうの僕はしあわせなままどこかへ閉じ込められて、僕はただ世界のすべてに笑顔を振りまいてすべてを許容する。いくら彼が怒ったって、世界も僕もそういうものなのだ。