どしゃ降りのセミの声。肌に痛い日差し。夏は今日で終わる。
 昼前に妙に固い声で今すぐ会いたいから早く出て来いと言われていつもの駅前へ来たものの、彼は用件を告げることはなくイラついているような速度ですぐにどこかへと歩き出した。不思議に思いながらも質問する気にはなれないまま僕はそれを追いかける。たくさんの見知らぬ人たちが僕たちの横を過ぎ去っていく。
「これからどこへ行くんですか」
 彼の自宅でも僕の自宅でもない、知らない方向へ足を向けた彼にそう尋ねると、彼はなにも言わずに僕の右手首をぱしりと掴んで急に歩調を速めた。驚いて彼の顔を見たが、まるで僕の動きに合わせたかのようにタイミングよく、彼はあさっての方向を向いてしまったので表情はわからなかった。なかば引っ張られるような形で僕も早足になって、しかし手を振り払うということも思いつけずにただ大人しく彼に従う。
「あの、ですから、どこへ?」
 掴まれた手首は彼の体温と僕の体温が一緒になって、どちらのものだかわからない汗ですべる。利き手を封じられたようで少し怖い気もするが、僕はあえてなにも言わない。重ねた質問に余計イラついたのか、彼はわざわざ立ち止まり、眉をひそめて僕のほうへ振り返った。
「行き先がわからなきゃ俺と一緒には来られないってのか?」
 いつになく真剣な、触れ方を間違えればなにかが切れそうな声だった。
 僕には、彼の望んでいるよくできた答えが思いつけなかった。握られたままの手首に視線を落とすと、彼は人質の存在を示すみたいに僕の手首をぎゅうと強く握り直した。少しだけ痛い。でもなによりも、彼が欲しがっている言葉が僕の中には見つからないことが苦しい。
「…僕では、あなたの望みにはうまく従えないと思いますよ」
 しばらく黙ったあと、汗ばんだ右手を見つめながらできる限り落ち着いた声でそう言った。思った通り僕の答えは正解からはほど遠かったらしく、彼は罰のように人質をより強く締め上げた。その痛みに僕は思わず音にならない小さな悲鳴をあげる。
 僕が顔を歪めたのを見て、彼はすぐに力を抜いてくれた。それから急に、轢かれた猫の死骸でも目撃してしまったかのような哀れむような表情になって目を伏せ、小さくごめんと呟いた。彼はためらうようにゆっくりと、何度もまばたきをした。それからなぜだか微笑んで顔を上げると、僕の目をまっすぐに見た。
「古泉。お前はどこ行きたい?」
 それはとても優しい声だった。今まで僕にかけられたことのない、そして僕にかけられることはずっとないだろうと思っていた優しくて柔らかい彼の声だった。僕はわけがわからなくて呆然と彼の顔を見返す。
「どこだっていいぜ。どんなに遠くても。俺は、お前の行きたいところへ行きたい」
 その言葉と声のあまりの優しさに、どうしてそんなことを言うんですか、と僕は思わず訊いてしまった。微笑む彼はなにも答えない。なにも答えないまま、僕の手首を握っていた手を下へとすべらせ、指の間に指を絡ませて、僕の手をしっかりと握った。
 彼の手はまるでプールのあとのタオルみたいに、ほっとするくらいあたたかい。
 彼は今にも泣き出す寸前の幼子のようにしあわせそうな顔で笑う。
「知らないのが、いつもお前ならいいのにな。
 そうしたらお前もつらくなんかないのに。俺の頭が毎回もっとちゃんとまわればなあ」
 それからもう一度、どこ行きたい? と首を軽く傾けて柔らかい笑顔で尋ねる。
――それで、僕にはわかってしまった。ああ、と言葉にならない吐息が漏れた。
 だから握られた手をきつく握り返して、すがるように指を絡めた。
「遠くへ行きたいです」
 勢いこんで、焦燥の滲む早口で、僕は言う。
「このまま、――このままで、世界が終わるくらい遠くへ」
 彼は僕の答えなんて最初から知っていたように、微笑んだまま力強く頷いた。格好良いなあ、とヒーローに憧れる子供みたいな純粋さでそう思った。彼となら何が起きても大丈夫だという気がした。
(明日の朝にはなにもかも僕も彼もこの夏も今この瞬間も、つないだこの手も)
 今日が終われば、終わらない夏の中でみんなみんな消え失せるのだ。
 僕もまた彼のように、本当に嬉しくて無理矢理に無理矢理に笑った。

終わらない八月の終わり

ハルヒはカタカナの題名の付け方がとても好み
カタカナ英語って安っぽくてかっこいい