秋に落ちる

 かなしくはない。薄い唇がなめらかに動いてそう音を発するのを見ていた。部室はだいだい色のやわい光に満たされていて、古泉はその光源を遮るみたいに俺の前に立っている。かなしむべきことなんてなにもありません。繰り返して古泉は口元で笑う。視線が合えばもっともらしく目を細めてもみせる。
 携帯が震える音がしていた。何回目だかは分からない。鳴りやまないからきっと電話なんだろうと分かりきったことをぼんやり思いながら、俺は一歩窓際へ、古泉のほうへ近付いた。
「行くのか」
 行くんだろ、とっくに確信しているくせにこんなことを聞いたってなんにもならない。古泉はええ、とすべるような仕草で肯定して、でも、今回はここですから行くという表現もおかしいかもしれませんねえ、と本当におかしくて笑っているみたいに笑う。
「…夕陽が綺麗ですね、今日は」
 窓の外より遠くを見やった古泉は、安心しきったような横顔でほほえんだ。腕でも掴もうとしてみせられたらせめてなにかが変わるんだろうに、やっとのことで右手に神経が通ったあたりで古泉は軽く頭を下げた。鳴り続ける携帯を示すようにポケットを押さえてみせて、肩をすくめて、俺の顔を真っ向から見てまた笑う。俺はそれらに対してなんの反応もせずにその場に突っ立ったまま、まさに他人事なので他人事として、古泉がこの部屋から出ていく音を聞いていた。足音六つ、それからドアノブが回る音。古泉がこっちを振り返りもしていないのなんて見なくたって分かるのだ。
 木製の扉がきしみながら閉まり終えるのを待って、俺は窓を開けてみる。もうしばらくすれば夜に変わるんだろう空気はどちらかといえば冷えていて、夏でもなければ冬でもないところへ来てしまったのだと今更ながら実感する。窓から首だけ出してグラウンドのほうを伺えば、校舎に挟まれた縦長の視界の中で土ぼこりと高いフェンスの向こうに町並みが、絵に描いたみたいにきれいな色合いで遠く遠くにまで続いているのだ。群青から茜色までまるで澄んだ空気の中のようなグラデーション、なにか途方もなく大きなものにだまくらかされているような気分になってこれが感傷ってやつなんだろ、ばかみたいだなと思っていたら今度は俺の携帯が間抜け面で鳴り響く。画面を見れば涼宮ハルヒ、耳に押し当ててもしもし、と言った。
「あんた今どこにいんの? どんだけ待たせる気なのよこっちはずっと待ってるの!」
 くぐもった音で怒鳴られて閉口する。ハルヒは机をどんどん叩きながら怒ってるみたいな声だった。
「いや、先に帰っといてくれって言ったろ。悪いけどさ」
「そんなの知らないわよ! いーい、早く来なさい校門まで。十秒以内にね!」
 切れた。それこそ知るものかと思いながらも窓に施錠する自分が情けなく、鞄を引っつかんでさっさと部室を後にした。扉が閉まる音が鳴る前に廊下を歩き出して、数分前に古泉が通ったかもしれない、もしかしたら今だって古泉はここに立っているのかもしれない階段を降りている途中でなんだか少しだけかなしむべきことだってあるような気がした。


 あれだけいらいらしていたように聞こえたハルヒは校門の前で俺を見つけると得意げにこっちを向いた。長袖のセーラー、カーディガンももう着たらいいのに。見ている俺のほうが寒くなってマフラーを軽く巻き直す。
「遅い!」
 ハルヒは俺の顔を鋭角に見上げてそう怒鳴る。となりにいると思った朝比奈さんと長門の姿は見当たらない。ハルヒひとりきりだった。
「あ、みくるちゃんと有希なら先に帰ったわ。みくるちゃんちょっと寒そうだったし、あんためちゃめちゃ遅いし、このままだったら暗くなるばっかりだと思ったから。有希がいればみくるちゃんも大丈夫だろうしね」
 じゃあなんでお前は帰らなかったんだ、と当然の疑問を口に出す。ハルヒはいくらかまばたきを重ねたあと、唐突に俺のマフラーのはしを引っ張って「いいからもう帰るの!」坂をくだりだす。息ができねえよばかやろう。まばらなまわりの生徒たちはこっちを、見ようとしてそれが涼宮ハルヒだとわかると何事もなかったような顔をして目を逸らしていく。
「そうだ、古泉くんとは一緒じゃなかったの?」
 ふと思いついたようにハルヒは言って、マフラーを引く手を緩めて俺を振り返る。古泉くんに用事があるから残ったんだと思ってたけど。首を傾げる仕草はハルヒにはあまりなじみのないもので、つまり至極まっとうな女子みたいな仕草で、俺はそれをなんのてらいもなくかわいいと思った。
「…古泉は、バイトが急に入ったみたいでな。別に大した用があったわけでもないんだが」
 そうなの、とハルヒは神妙な顔をする。俺はハルヒに向いていた視線を坂の下に広々と続く夕暮れの町並みに移し、特に意味もなく頷いてみせた。夕陽が綺麗ですね、今日は。そう言って笑った古泉の表情はもう曖昧で、同じ場所からだって俺とハルヒが今見ている景色なんて見えるわけがないことくらい最初から知っている。ハルヒはそれ以上何を聞こうともしなかった。慣れきった急勾配を二人でくだる、くだらない話は声にするたびに頭から抜けていく。秋になって俺はもう春を思い出せない、五月の終わりに連れられてった世界の色も。だれもいない雑踏ではだれとすれ違ったって分からない、分かっていた。
「…なあハルヒ、かなしいことがあったら俺に言えよ」
 そう呟いてみたところで、なにも起こりやしないのだ。ハルヒは聞こえていただろうに「はあ? なによなんの話よ」早口で聞き返してくるので、俺は首を横に振った。なんでもない。かなしむべきことなんてなんにもないのかもしれないけれど。
「……あんた、なんかかなしいことがあったの?」
 小声で問い詰めるみたいな口調がハルヒらしいなあと思って少し笑う。なによ、と口をとがらせたハルヒに俺が渡せる言葉なんてひとつもなくてただ、へいきだ、とだけ言った。沈む陽に合わせて空はだんだんと暗さを増していくけれどそれは灰色よりも紺色に似ていて、俺には透き通る水の色も、ましてやくすんだ赤色だなんてけっして見えはしないのだ。
「かなしくはない」
 繰り返せば、ハルヒはふうん、というその抑揚だけでじょうずに話を終わらせてしまう。俺は口に出してみてやっとこんな言葉が事実のわけがないんだと思い至って、それからやはりかなしいと思った。

題名が寒くてごめんなさい
ハルヒはかわいい