光かがやく陽だまりの園で

 古泉くんはあいつの言ったこと信用したの、とベッドの上で膝を立ててうずくまる彼女が言った。剥き出しの白い肌と所々に生々しく残る赤が今更まだ恐ろしくて、僕は彼女の体に毛布を巻く。ありがと、と呪いの言葉みたいな低い声。かけたそばからずり落ちる防寒具を、彼女は引きずり上げようともしない。だから僕ももう手を出さず、元通り枕の上に頭を落とした。
「どちらがいいですか」
 下卑た会話が繰り返される深夜テレビだけが、沈黙と真っ暗闇をこの部屋から取り上げていた。僕は体ごとそちらを向いて、壁に背をつけた彼女に背を向けてただ瞼を開けていた。画面の中で場面が切り替わるたびに部屋に充満する照明の色も明度も目まぐるしく変わるが、窓を閉めたままなので沈殿する匂いは同じままだ。頭が痛い。
「それ答え? そのくらい自分で考えればいいのに」
 どちらだってあなたには同じだろうから、せめてあなたの好きなほうを思っていたことにさせて欲しかっただけなんですよ。本当のことを言ってみたくはあったが、彼女にこれ以上軽蔑されても仕方ないだろう。
「……そうですね。あっちのほうが面白そうだ、とは僕も少し思いましたけど。信用……までは。どうでしょう」
「ああ、すごくまともな答えね。一般的だわ。古泉くんらしい」
 抑揚を欠いた彼女の声には喉からあふれ出たつまらなさが色濃く練りこまれている。理不尽な質問だったな、と認識してしまえば僕の中ではそれが彼女らしさの体現の一つだったことになってあっさりと肯定される。我ながら馬鹿馬鹿しいが、僕があの男にみっともなく(今となってはそうとしか思えない。彼も口に出さなかっただけで同意見だろう)吐き出した恋愛感情は世間一般で言うところのそれと特に異なってはいなかったはずだ。
「実際あっちのほうが面白かったんでしょ。だからジョンだって帰ってっちゃったのよね。あたしずっと待ってたのにさ」
 彼女が恋に身を焦がすクラスメイトたちを軽蔑しているのも、あながち間違いではないのかもしれない。その、その他大勢に自分を含めようとしない僕も、彼女にとってはみんな同じなのかもしれない。けれど、彼女自身だけがそうではないのだと、一体誰が肯定をくれると言うんだろう。
「待ってただけじゃないわ、自分でもいろいろ行動したし。でもだめね。あーあ、だめだった」
 おどけたように、歌うように彼女は今日初めて笑った。ああ違う、もう日付が変わっているから昨日からも初めてになるのか。笑っていると、背後の彼女から滲むそれ以外の表情を、なにひとつ読み取りたくなかった。春からずっとそれだけを願ってきたつもりだったのに、冬の今でさえまだ、僕は同じことばかり願っている。なにも変わらない。僕たちには変化がもたらされない。ずっと二人で探しても、探しても、たとえ一瞬だけ見つけられても、やはり届くものではなかったのだ。ひきつけを起こしたように笑い続ける高い声につられたのか、テレビの中でも知らない芸人たちがどっと笑った。
「……僕の力を足したところで、及びませんでしたね」
 部屋中が笑っているのだから仕方がないと、僕の唇も微笑みをつくる。彼女のほうへ体ごと転がって振り返れば、鼻先には綺麗な足の指が、陰になったシーツの上にまるまって並んでいた。行き過ぎた頭の角度を天井のほうへのろのろ上げる。細い足首、艶かしく白いふくらはぎに続いて、膝に顔をうずめてこちらを見下ろす彼女の瞳と視線が合った。
 背後から安っぽい効果音が聞こえて、同時にちょうど赤く変わった光が、その目に突き刺さるように反射する。彼女が背負う白い壁も一面同じ色に染まる。
「でもさあ、あたしになんの力もなくてよかったかもね」
 赤くきらめく二つの瞳には、言葉通りどんな力も宿ってはいなかった。吐息混じりにうつむいた彼女の黒く長い髪がばらばらと、細く絡まりながら赤色光に照らされた肌を覆う。あの男が今の彼女を見たらなんと言うだろう、取り残された感情は優越感でも絶望でも諦念でも恋愛感情でもなんでも構わないから、どうせ壊すなら僕らの記憶ごとさらっていけばよかったのに。そんなにもここが気に入らないなら、なにひとつ残さずにいなくなってくれればよかったのに。
 彼女の華奢ななで肩から滑り落ちた毛布を掴んで、僕はゆっくりと体を起こした。男の形に光源が遮られ、すぐそばの壁に大きさの変わらない影が黒く落ちる。彼女の瞳からも赤い光が消えて、元通りの暗い輝きが戻る。
「風邪を引きます」
 布団の外の空気は冷たいのに澄んでさえいない。もう一度、並んだ膝小僧に毛布をかけようとした僕の手首を、彼女の凍った指が押さえ込んだ。僕の影になった彼女は目を伏せて、膝を熱心に見つめながら口を開いた。
「あいつが言ってたのが本当ならさ、古泉くん、あたしが憂鬱になるたびに世界崩壊を阻止するとかで戦わないといけないんでしょう」
「……ああ。そういえばそうでしたね。世界のためだなんて、ご大層なお話ですが」
 軽く笑うと、握られた手首がぎりぎりと締まる。どうせ冬服なら見えなくなるのだから、指の形だけでも残していってはくれないだろうか。あなたのためなら戦うくらい構わないなんてかっこつけて言って笑えば、彼女は僕を殴ってさえくれるかもしれないが。ああ、やはりあの時言った通りだ、僕は彼女が好きなのだ。そしてたぶん、彼がすぐに返したように、それは正気の沙汰ではないんだろう。
「あたしはジョンの言ってたような、不思議な子じゃなかったのよ。古泉くんも超能力者じゃないみたいだしさ。長門さんも宇宙人じゃなかったし、朝比奈さんも未来人じゃなかったわ」
 彼が現れて、そしていなくなってから、もう何度聞いたか分からない言葉を、彼女はまた夢うつつのように繰り返す。空いているほうの手でそっと、小さな子供にするように慎重に、骨の浮いた背中をさする。剥き出しの体はひどく冷たく、自分の手がまるで焼きごてになったような感触がした。
「涼宮さん。明日は天気がいいそうですから、また手がかりを探しに」
 手首に鋭い痛みが走って、僕の言葉はそこで途切れた。
 見れば、五本の爪が皮膚に食い込んで、そのうちのひとつが表皮を破り切っていた。視線をずらすと、彼女がいつになく鋭利な表情で、僕を射殺しでもしたいのか、黒光りする瞳をこちらに向けていた。
「あたしに世界をどうこうする力はないのよ。だから古泉くんは、」
 激昂を閉じ込めたような声音が途絶え震える。縋られているとでも勘違いできそうなほど握られた手首が脈動に応じて痛む。半月型の傷からかすかに血が滲み出している。
「古泉くんは、あたしが憂鬱でもいなくなったりしないじゃない。あいつとは違うわ。ここはあいつが言った世界じゃないのよ。つまんないまま。なんにも起きない。起きたのに繋ぎとめておけもしない。あたしじゃ取り返せない」
 強く締め上げられる手首に、もうひとつ手のひらが重ねられた。
「でも、それでもいいわ。最低な気分のあたしを置いてだれか知らない人を守りに行くなんて言わないで。あたしは特別な人間でもなんでもなかったけど、だからって置いていかないで。そんなの嫌よ。いや。ねえ古泉くん、だから、」
 だから、あたしの憂鬱だって許してよ。
 体温のない十本の指が、赤く塗れた傷を覆い隠す。泣き声と呼んでも差し支えないほど揺れる彼女の言葉が、等しく僕をも憂鬱に浸す。背中をなでる手に少しだけ力をこめて、彼女のこめかみに頬をつけた。
「どこにも行きませんよ。どこにも行けません。僕は、彼ではないので」
 残念ながらね、と付け足そうか迷って、僕はただ笑うだけにした。彼女はなにも言わなかったが、震える体からゆっくりと力が抜けていくのは分かった。脳裏にフラッシュバックするあの日の彼女のきらきら輝くしあわせそうな瞳が、それを見て満足そうに苦笑する男の表情が、僕らの記憶から消え失せるまで一体どれほどの時間がいるんだろう。彼さえ戻ってくれば今すぐにでも彼女は僕を振り解いて憂鬱などとは無縁でいられるはずなのに、それを僕が望めば彼女はきっと解放されるはずなのに、どうして願わない僕に彼女を理解して戦う力など与えられるはずがあるだろう。
 ささやくように呟かれる、彼女の声に頷いてみせる。あなたが言うならなにもかも簡単なことになる。みっともなくたっていい、正気でなくたっていい、僕にとっては最初からずっと、あなただけが特別な人だ。
「……古泉くんはあいつの言ったこと信じないでね。忘れて」
 たとえ彼の言葉があなただけのものになっても、あなたが思うのがただひとり誰であっても。

平行世界設定でした 消失古ハルはうんざりに限る
でも、消失世界がパラレルワールドじゃなくてよかった