このまちをでてゆく

 この部屋を出て行く。このまちを出て行く。
 入り用なものだけ適当にまとめた小さなかばんをぶら下げて、僕はつましい玄関から、一年と少しだけの時間を暮らしたこの部屋を眺める。玄関以外の電気はもう消してしまったから、淡い暗闇に浮かぶのはソファーの背のかたちやブラウン管のわずかな反射光、カーテンの下の影、フローリングに走る直線たち、そればかりだった。ここで僕はいったいなにをしただろう、思い出や記憶や、そんなものが僕の中に確かに存在しているのに、浮かび上がるのは薄い亡霊みたいなつかみどころのない、感情と称すことさえあやうい、どこかの神経のかすかな興奮だけだ。僕はここで呼吸と睡眠をくりかえして日々を辿り、いつからか彼も僕よりずっと我が物顔でここにからだとこころを置いて、そうやって何度も朝が来て夜が来て、地球儀はまわり続けてきた。ここは、この部屋はきっと僕にとってだいじなところだった、なんとなれば、ここが僕にとっては帰るという言葉の指し示す唯一の場所だったからだ。今も、僕が家と言って思いつくのはずっと遠くにある父と母とそれから姉の住んでいた場所、 そこにあった僕の、(当時やっと手に入れたばかりだった)僕のためにあてがわれた部屋だ。けれども、それでも、ここは僕にとっては僕の家、だれにもなににもはばからずにゆっくりと深く呼吸ができる、四方を壁に囲まれた僕の領域だったのだ。そして今日、僕はこの部屋を出て行く。
 暗闇に慣れた目は家具の一つ一つの黒い輪郭線をおぼろげに捉え始めていた。控えめに見回して、きっともう見ることのないこの部屋、僕と、そして彼が、たとえ短い時間であったにしても確実に存在していたその座標を、覚えていることができたらいいなと思う。
 最後の灯りを消すと部屋中が真っ暗になった。僕は静かに振り返り、扉を押し開けて外へ出る。初夏の夜はまだ少し肌寒い。重みで勝手に閉まった扉の、立てる低い音を最後まで聞いた。僕は鍵穴に鍵を入れてがちゃりとまわし、それを引き抜く。ノブに手をかければ金属はひどく冷たくて、もうひねることさえできなかった。この扉はもうひらかないのだ。
 階段の下には彼が立っている。かんかんかん、と靴を響かせながら降りると、彼がこちらを向いて微笑とも無表情ともつかない顔をする。僕は明確にほほえんで、お待たせしました、と言った。僕のものより一回り小さなかばんを肩にかけなおして、彼は僕の手を握った。少しだけ汗ばんでいるように思った。
 ゆっくりと歩き出した僕たちは、きっと駅のほうへ向かっている。夜の帳の黒、規則的に並ぶ電灯の曖昧な白、雨に濡れたアスファルトの黒、そこに走るまっすぐでいびつな白い線。夕方まで降っていた雨の名残の小さな水たまりを避けて、僕と彼は夜のまちを、手を握り合ったまま歩く。
 不思議なくらい落ち着いた夜で、まちは静かで穏やかだった。隣を歩く彼の瞳は真剣で真摯で、きれいな黒色をしている。目が合えば、彼はそこに喜色を浮かべた。きのう、おととい、数日前、数週間前、夢物語みたいなどこか遠くのまちの話をしていたときと変わらない表情で笑って、彼は僕の手をもう少し強く握る。彼の描く幸福はとても安易で幼くて、僕はそれが本当に存在するだなんて思うことができないけれど、彼の言葉や提案や指先や体温を拒む気にはならない。それらは僕にとって、多少いろいろなものを曲げることになったとして、自ら受け入れたいと思う数少ないものだった。希少価値のありそうな彼の微笑を眺めて、僕も同じようにほほえむ。
「…涼宮さん、きっと悲しまれるでしょうね」
「そうだな、心配するだろうな。朝比奈さんも長門もクラスのやつらも、親も妹も」
 僕らの手は絡まったままで、歩く速度も変わらない。平穏に過ぎ去っていく住宅街は、彼には僕よりもずっと重いものなのだろうと思う。ここは彼が本当にたくさんの時間を過ごしてきた、そしてこれからも過ごすはずの、彼のまちなのだ。
「僕は現状に、なんら不満はありませんよ」
「そういうこと言うから俺は不満だよ」
 空いたほうの手を軽く上げ、肩をすくめて彼は冗談のように言う。僕は軽く苦笑して、本当ですよ、とくりかえした。彼は取り合わずに軽く息を吐いただけで、しかし不機嫌になる様子はない。たったそれだけのことに安堵して思わず唇のはしが上がり、それを自覚した僕はまた目を細める。彼は僕のそんな様子を見て瞳をわずかに見開いた。それからすぐに視線を滑らせて目の前にまっすぐ続く道路の先を見つめ、おもむろに立ち止まった。
「なあ、おまえは」
 つないだ手がさらに握り込まれる。ぐ、と彼の指先が僕の手の肉に食い込む。彼は電線の巡る暗い空をゆっくりと仰いだ。雨雲はまだこのまちを去ってはおらず、空には月も星も銀河も大宇宙も見当たらない。そばに立つ電灯のくすんだ光が、彼の横顔にぼやけた影を描いている。家々の明かりは灯っているのに人影はまったくなくておかしなほど静かで、色の違う世界が薄く重なって見えるような気がした。
「おまえは、…おまえが、おまえにとってだいじなものが、」
 空へ向いた彼の眼球がせわしなく動いているのを僕は眺める。彼が眉根を寄せてなにかに苦しんでいるような戸惑っているような表情をしているのを見る。つながった手を少しだけ引いたら、彼は即座に僕の顔へ振り向いた。まちは未だ静寂にひたされていて、僕の頭には現実の青色がじわじわ染みてきていた。
「世界でもハルヒでも『機関』でも、おまえでも俺でもいいんだ」
 彼は喉を絞められたみたいにこわばった顔で笑ってみせて、手をつないだまま片腕で僕を抱く。彼の肩越しのまちと空は灰色に見えて、静まり返っていて、目を閉じると赤や青や彼女の笑顔や、今から置いていくものばかりが浮かぶ。急にひどく、怖いと思った。
「俺は俺のためにおまえがだいじで、だから、」
 耳元で彼の低い声がする。彼は僕の体を押し固めようとするかのように腕に力を入れた。
「このまちを出よう。俺はおまえが」
 ――好きなんだ、そう言って彼が笑うように息をする気配。つないだ手がすっと離れて、背中にまわったもう片方の手に重なる。聞いた覚えのほとんどない言葉にとっさに反応できずにいたら、彼の唇が軽く触れて、ためらうような間を置いてから離れた。僕はどうにか口を開いてみたけれど、なにも言葉を思いつけなくてただ震える呼気だけがこぼれ出て行く。自分がどんな顔をしていたのかはわからないけれど、彼がかすれた声でごめんなと呟いたので僕は急いで彼の少し低い肩にぎゅうと頭を押し付けた。違う、と言おうとしても喉が苦しくて小さな嗚咽しか出てこない。仕方がないので腕を彼の背中にまわして、服のはしをきつく握り締めた。
 温度の上がった瞼の裏にはいろいろなものが映る。涼宮さん、長門さん、朝比奈さん、彼、入れたてのお茶のあたたかさ、オセロの緑、トランプの裏の模様、古臭い水道の勢い、紙のめくれる音、桜並木、僕の部屋で居眠りする彼とか、生徒会室のどこか淀んだ空気、タクシーの匂い、鉄骨が見える瓦礫の山、彼女が声を張り上げる、ソプラノが凛と響くやわらかな午後の部室。走馬灯みたいだ。だからなにもかも、こういうものはもうみんなすべて記憶なのだ。
「……こいずみ?」
 呟くような不安定な声。彼の手が僕の背中を滑って、首筋をあたたかい感触が通り過ぎて、頭の後ろで止まる。ぼんやりとした無しか映らなくなった僕の瞼の向こうには、彼の肩がちゃんと質量を持って存在している。記憶でも思い出でもなく、彼は今ここにいる。彼の肩からゆっくりと頭を離すと、目の奥で痛みが拡散した。焦点を合わせるのが難しいほど近くで、こちらを見ている彼がぼんやりと網膜に映る。
 唇のはしが自然と上がり、僕は少しだけ首を傾けて彼の瞳にきちんとピントを合わせた。
「どこへでも。どうぞ、どこへでも連れて行ってください」
 言ってしまったあとで少しだけ恥ずかしくなって笑う。彼はきれいな目をきれいにまるくして、それからくらくらしそうなほどぐらぐらした笑顔になった。静かに、けれど深く息を吐いて大きく頷いた。
「…だれも、おまえのこと、世界のために必要だなんて言わないところに行こう」
 おまえはひとりで充分なんだよ。
 彼の瞳の奥のほうには、ここではない遠くのまちの風景が確かに映っている。ああ、神さまと世界とこのまちよりも、彼と彼の言う安易で幼いしあわせのほうがずっとずっと、僕には鮮明にあざやかに見える。
 また元通りに手をつないで、僕たちはゆっくりと、このまちとこの日々の出口へと歩く。振り返れば夜に沈むまち、数え切れないほどの謝罪の言葉は頭のうしろのほうだけでBGMみたいに鳴っているけれど、僕はその手を離せないまま。彼はその手を離さないまま。
 このまちを出て行く。

らぶらぶすぎて不安定
半ば誘拐のような駆け落ちもしたらいいと思う