三色の世界は音をなくした

 がやがや、ざわざわ、ざざざざ、ざあああ。
 洪水みたいな雑踏のなかに僕は埋もれて溺れていた。音が声がことばが遠くから、過ぎ去っていく人たちのことばが声が音が近くから、僕の鼓膜をすり抜けて貫いて突き破って向こうがわへ消えていく。たくさんの人が僕にぶつかって、たくさんの人が僕を横切って、もっとたくさんの人が僕に気付かないままどこかへ行ってしまう。人たちはことばをまとうように話し続けて歩いていく。どの人も話すことばがそこにあり、どの人も話す相手がそこにいるのだろう。僕はひとり、ずっと立って溺れたままでいる。そろそろかな、と手を伸ばすと透明に触れた。まばたきをすると世界は灰色だった。
 耳の奥から水音がする。ごぼごぼごぼ。溺れる感覚も塩素のにおいも気のせいだった。僕は灰色の洪水のなかに粛然と立ち尽くしている。ひろがる静寂のなかに今まであふれかえっていたことばを探してみたけれど、だれもいなくてどこにもことばなんてなかった。志の違いはじめた同志ならいるんだろう、でもきっととても遠いところだ。じっとしていると灰色なのは世界ではなくて僕自身のような気分がしてくる。じわじわ地面が揺れるのでなにかと思って顔を上げると、大きな大きな巨人が青く光っていた。ここはひどく静かだなあ、と思ったときには僕は立っていない。空のなか。赤い。青の向こうに灰色が透けてみえる。この世界には色がみっつしかないのだ。赤と僕が青のまわりを回りだして、青の巨人の腕が空気を切り裂く音の震え、ねずみ色の市街が割れる響き、血だまりに引きずり込まれるような感触、僕の視界はぜんぶが混じりあって失敗した絵の具みたいに塗り潰されてぐちゃぐちゃになった。

 次にまばたきをしたとき僕の頭はノイズと砂嵐でばらばらになっていた。たくさんの知らない人たちが僕をよけて歩いていき、すぐに視界から消えていく。ありふれた音と声とことばが絶え間なく鼓膜を揺らす。
 もとの雑踏に戻ってきたことに気がつくにはかなりの時間がかかった。僕は自分の左胸を押さえる。ちゃんと動いている。こんなの、何十回何百回くりかえしたってきっと慣れる日なんかこないんだ。
 地面がまた揺れている、と思ったら僕の足ががくがく震えていた。灰色が透ける青が記憶のなかから染みだしてきて、僕は今さら泣きそうになった。感情が戻ってくるのはいつだって終わってからで、今になってやっと、怖くて怖くてたまらないと思う。あの静けさ、干からびたモノクロの街、壊すだけの青い巨人、なによりあそこには、だれもいない、だれの声もしない。まばたきのたびに灰色と青と赤がまぶたの裏に映っているのが見えて、僕は目を閉じることさえできない。糸が切れそうな静謐の耳鳴りがする。怖い。悪夢に似た理由のない恐怖が僕の呼吸を震わせる。うまく立っていられなくて世界が揺れ続けた。
 …こんなにも怖いなら、と僕は思う。
 はやく彼が、涼宮さんを抱きしめればいいのに。なにもかも忘れてはやく涼宮さんに愛してるってささやいてしまえばいい。もう二度とあの灰色の世界を見なくて済むなら、僕は、彼なんか、いらない。彼がはやく僕に構うのをやめて最初から出会わなかったことにして、彼の心がはやくぜんぶ涼宮さんだけのものになってしまえばいいのに。
 怖いのはもういやだ。
 僕はだれかに助けてほしくて、ポケットの奥底から携帯を引きずりだした。ボタンを押すと液晶が光り、そこに浮かぶ小さなマークが着信が一件あったことを示している。『機関』のだれかだろうと思いながらもう一度ボタンを押すと、狭い画面のいちばん上に表示されたのは、紛れもなく彼の名前だった。呼び出し、62秒。僕は彼の名前をじっと見つめる。思い浮かんだのは僕と話すために携帯を耳に当てている彼ではなく、どうしてか涼宮さんの輝く瞳のほうだった。上がった受話器のイラストを僕の親指が無意識に覆い隠す。さっき考えたことなんかすでに頭から消えていた。僕は声をつなげるためのそのボタンを押したくて仕方がないのに、僕の指は止まったままで力がなんにも入らない。ただ震えるだけだった。
 のどが痛くて、ため息もつけない。
 最初から分かっている。彼は、…彼は電話の相手を間違えたのだろう。彼が62秒も呼び出し音を聞き続けてまで待っていた相手は、僕ではない別のだれかだったんだろう。要は単なる間違い電話だ。たとえそうではなかったとしても、僕にとってはそのほうがいい。
 二人だけで話すときの少し低い彼の声と、閉鎖された世界の色、いつだって僕より高い彼の手の温度と、彼と話しているときにだけ見せる涼宮さんの太陽みたいな笑顔が、順番に浮かんだ。液晶の中の彼の名前を、僕はずっと見続けていた。
 指をゆっくり滑らせて、一件削除、にカーソルを合わせて僕は決定のボタンを押す。本当に削除しますか? 容赦のない質問に、はい、僕の指はまだ若干震えながらそのボタンを押し込んだ。さっきは力なんかぜんぜん入りやしなかったのに、こんな時ばっかり。示された彼の名前も彼が僕の――別のだれかの声を待った62秒という時間も、痕跡さえ残さず、最初からなかったみたいにきれいさっぱり消えてしまった。
 危なっかしい手つきで携帯をポケットに戻して、僕は歩きだそうとした。でもまだ地面が揺れている。行きかう人たちのことばと声と音の応酬のなかでただ僕だけがひとりきりだ。目を閉じるのが怖い。赤と青と灰色の、憂鬱だけでつくられた世界。こんなにたくさんの人がいるのに、僕はまだだれの声もしない静寂のなかにいる。
 彼の声がききたい、と思った途端に涙がぼろぼろこぼれてきて、洪水みたいな雑踏のなかに僕は埋もれて溺れていた。