暗室ランプ

 それではまた明日、といつもの曲がり角で古泉は言った。夕暮れが紫で綺麗なんだか気持ち悪いんだかよくわからない空は高い。ふと不思議になって、「そっちに行ったらお前の家があるのか?」などとしょうもないことを俺は尋ねた。古泉は驚くでもなく笑って、「そうですね。ありますよ」と言ってまた、にこにこした。「戸建てだっけ?」「いえ、アパートです」ふうん、そうか。俺はうなずいた。
「そのお前の家には古泉って表札がかかってて、かごが錆びた自転車とか置いてあって、玄関入ったら靴がばらばら並んでて、ただいまって言ったら親がリビングからおかえりーとか言ってきたりするのか?」
 長々と質問をすると古泉は少しだけ困った顔をして笑った。笑ってばっかりだ。
「そうだったらよかったんですけどね。残念ながら僕は一人暮らしですから、ただいまと言ったところでだれも返事はしてくれません」
 ふうん、そうか。俺は首を横に振った。それは、気の毒だ。一人暮らしは羨ましい気がしないでもないけれども。帰ってから生きるのに必要なことをぜんぶ一人でやるのはさぞかし辛かろう。「たいへんだな」「…そうですね、正直なところ」古泉は眉尻を下げて肩をすくめた。
「じゃあお前は、家に帰ってもただいまとは言わないのか?」
 そう訊いたら古泉はふっと笑った。そしてそれを見た俺の顔を見て、気を悪くしないでください、と言った。自嘲みたいなものですから、とつなげた。「そうですね、もうほとんど言いません」いつもの笑顔を少し緩める。
「電気もついていない暗い部屋に、自分の声でただいまとだけ響いてそれっきりだと、…なんというか…」
 珍しく言葉を濁す古泉に、手振りでもういい、と示してやった。古泉は首を軽く右に傾けて、すいませんね、みたいな顔をして笑った。また笑った。「それだと、家に帰っても、あんまりほっとしたりはしない…のか」語尾を上げずにつぶやいたら、古泉は黙り込んだ。質問だと思っていないのかもしれなかった。
 曲がり角で立ち話もなんですね、と古泉が言ったので、俺はその意味を考える。ひとつ、ここで解散。ふたつ、そのへんの公園か喫茶店かファーストフード。みっつ、俺の家。よっつ、だれもおかえりを言ってくれない古泉の家。
「四番目の選択肢でいいよな」「…できれば、選択肢を一番から紹介してください」聞こえない振りをして古泉の手を引っ張った。最初に古泉が向かおうとしていたほうへ曲がる。曲がったあとで、そこからの道がわからなくて立ち止まった。古泉が背中にぶつかってきた。「お前んち、どっち?」
「まさか僕の家に来るつもりですか? なにもおもしろいものはないですよ」「お前がいるから他はいらん」切り捨てると古泉は困り果てたように笑った。
「反論するのが面倒になってきたんですが、あなたに大人しく従ってもいいですかね?」
 少しばかり考えてから、まあいい、と俺はうなずいた。
 古泉の道案内は嘘ばっかでほっといたら俺の家に着くんじゃないかと思っていたらそんなことはなく、たいした時間もかからずにどうやら最短ルートでごくありふれたアパートの前に俺と古泉は立っていた。「ここか?」「はい。実は『機関』から支給されたものですけど」ふうん、そうか。興味がないので俺は生返事。どうせそんなこったろうと思ってたからいい。「中に監視カメラとかはない」確認のために言ってみた。「さすがにそれはないですね。盗聴器もないと思いますよ」古泉は出し惜しみせずあっさりと答えた。少しつまらないがもういい。
 古泉の部屋の前まで行くと、表札はかかっていなかった。郵便屋が困るだろうに、とつぶやいたが、「どうせ広告以外はだれからも手紙なんて来ないので」古泉は笑っただけだった。
「鍵。開けるから出せ」
 手のひらを上に向けて催促すると、古泉はカバンの中からすぐに質素な鍵を引っ張り出してきて、その鍵を、わざわざ俺の手を自分の両手で上下からサンドして乗せた。それから俺の顔を見てやたら嬉しそうに笑った。それへのリアクションはほうっておいて、俺は古泉の手がかぶさった俺の手のひらから鍵を出して、冷たいドアの穴に入れてひねった。扉を開けると、生活臭の全然しない無機質な部屋が、電気もつけられないまま暗く、ぬるま湯みたいな闇の中に浮かんでいた。
 玄関に足を突っ込む。古泉が普通についてきたので振り返って、ぐいぐいやって外に押し出した。「うわ、え、だめなんですか?」だめだ、と俺は顔をしかめる。古泉の手を乱暴にとって、手のひらにさっき借りた鍵を握らせた。
「5分経ったら、鍵開けて入ってこい」
 困った顔をし続けている古泉は、それでも先ほどの自分の言葉を思い出したのか、大人しくうなずいた。俺は開いたままの扉から遠慮なく中に入り、扉を閉めて鍵をかけた。暗い部屋には確かにだれもいない。ただいまを言う気にならないと言った古泉の気持ちも、なるほど、わかる。手始めに家中の電気をだいたいつけてから、リビングに行ってどう見ても旧型のテレビをつけた。ブラウン管に最初に浮かび上がってきたのはなんとNHK総合で、俺はうんざりした。教育のほうに変えてから切ってやった。カーテンを開けて、外がもう暗かったのでやっぱり閉めた。置いてあったソファに沈み込むように座る。見回しても娯楽用品はさっきのテレビくらいしかない。生活必需品はちゃんと揃っているし綺麗な部屋だが、まるでモデルルームのようで生活感が皆無だ。隣の寝室を覗いたらベッドの上の布団だけがぐっちゃぐちゃになっていた。もしかしたら古泉はベッドの上のぶんの面積しか支給されてないんじゃないかと思う。
 リビングに戻る。またソファに沈み込む。たぶんそろそろ5分。ぼうっと待っていると、明るくなった静かな部屋の中に、がちゃがちゃと鍵穴から音が届いた。続いて玄関からも。声は聞こえなかった。俺はイライラする。「古泉、なにか言うことはないのか」座ったまま怒鳴ると物音が止んで、それからしばらくして控えめな声がした。
「…ただいま」
 よし、と俺はひとりでうなずいた。
「おかえり」
 間延びした声でリビングから叫ぶと、ほどなく古泉が顔を見せた。俺を見て、俺を見てなにか言おうとしたようだが、笑うばかりでなにも言葉にしなかった。俺はソファから立ち上がって古泉の耳元にもう一度、おかえり、と言ってやった。古泉はくすぐられたみたいに笑う。笑ってばっかりだ。
「いつもこうなら帰ってくるのもさみしくないんですけどね」
 さみしいと思うならたまにはわがまま言え、と言ったらそれしか表情を知らないんじゃないかと思えるほどに古泉がまた笑ったので、俺は古泉を引っ張ってソファに座らせた。立ったまま古泉の頭を俺の胸に押し付けるように抱きしめる。そのままでしばらくいると、俺のシャツの胸の辺りが、ちょっとずつ湿っていった。

古泉宅に関する妄想が止まらない
いつかなにかで行かないものか