落ちる雨が人の気配をノイズ越しのように掻き消して、足元で跳ねる雨音が人の存在を足音にして浮かび上がらせる。広げた傘の下はまるで周囲から隔てられたように、僕ひとりだけの空間になる。朝から降っていた雨はそれほど強くはなかったが、しっかりとした質量を持って淡々と止まずに続いている。湿気た空気は生ぬるく、それでも滴に濡れた腕にはうっすらと鳥肌が立っていた。
紺色の傘に上半分を遮られた視界の中では、休日の午前の駅前が何事もなかったように回っている。どこかへ出かけていく人たちの足が、入れ代わり立ち代わり現れては消えていく。鮮やかな色の傘が跳ねては揺れて、僕の後ろにあるロータリーの屋根の下まで辿り着いたら途端に、萎むようにしまわれる。
平和で平凡な眼前の景色に、先ほどまでの面影は欠片もなかった。ついさっきまで無人の廃墟だった世界が、正常な姿のままでそこにある。僕が薄い膜の向こうで暗い空を飛んでいた時も、ここは何も違わずに、ざわついた人波も雨も、今と同じようにずっとそこにあったのだ。
傘を打つ雨の感触が、銀色の柄を握る手に伝わってくる。動かない靴の裏に水が少しずつ染み込み始めている。待つことには慣れているから構わないけれど、消えたばかりの空間の境目にずっといるのはどうも慣れない。頭の中が灰色のままなのに、視界には色が戻っている。その端で、小さい子供のきいろい長靴が、深い水たまりに入って楽しそうに飛び跳ねていた。彩度のない思考回路にまで大きな笑い声が響いてくる。焦点を虚空からその子――きいろのレインコートを着た小さな女の子へ合わせると、お揃いの鮮やかなきいろい靴が、見る間に泥の色に汚れていくのが見えた。たしなめるような音階の大人の声がかすかに聞こえる。少女は構わずに笑いながら水たまりを蹴飛ばした。
こんなことをして、彼女は楽しいのかな。起き抜けから嫌なことでもあったのか、それともよく眠っているうちに嫌な夢に遭ったのかな。その憂さ晴らしは、楽しいのだろうか。この知らない駅も、ここから見える綺麗な街並みも、粉々に砕いてがれきの山にするのは、楽しかったのだろうか。
少女から視線を外し、目をつむって頭を軽く振る。そうじゃない。そんなわけがない。楽しくないから、彼女はこんなことをしているのだ。現実を壊さないように、わざわざ閉じた空間を作り出して、そのために僕らを呼んでまで。
――ならばその、彼女のための狭い世界を壊す僕は、楽しいのだろうか。
目を開けて傘の柄を握り直す。手の位置を変えたら金属はひんやり冷たくて、迷走する思考は水を差されたように緩やかになる。
結局のところ世界のことなんて、彼女も僕も、たぶんまるで考えていやしないのだ。考えられるはずがないのだ。だからこんなのは、ただの言い訳の偽善に過ぎない。
「なんでわざわざ外にいるんだ」
背後からの声に振り返ると、仏頂面の彼が屋根の下に立っていた。
彼は軒先から三歩外に出て傘をさしている僕を、呆れを隠さない目でにらむように見ている。彼の不機嫌に応えるように、僕の唇は条件反射で笑う。手にはたたまれた傘。今しがた電車を降りてきたところらしかった。
「ああ、すみません」
無意味な考え事が中断されたことに安堵しつつ、軽く頭を下げておく。待ち合わせではなかった。迎えに行くからそこで待ってろ、という言いつけを、冗談だと思いながらただ聞いてみただけだった。半信半疑どころか、僕は彼が来ることなんてほとんど信じてはいなかったが、新川さんの迎えを断ったら、動くのが億劫になったのだ。
「珍しいですよね、あなたがこういうことをするの。なにかありました?」
「なんもねーよ」
苛立った声で即答される。携帯越しに聞いたのと同じ、焦り疲れたような早口の、でもいつもよりどこかためらいがちに聞こえる話し方。
「そうですか」
笑うと、彼がほんのわずかに肩を落とした。落胆させたのかもしれない。彼が何を思ってここまで来てくれたのか、僕にはよくわからない。たぶん僕も、こちらに戻ってきてすぐに鳴った電話に出たのと同じ声でしゃべっているんだろうと思う。近ごろは閉鎖空間の発生に長い間が空くせいか、感覚がうまくつかめなくて、少し怖い。頭にまだ彩度が足りていない気がする。
彼が一歩、雨だれが落ちる屋根のふちギリギリまで近寄ってくる。まるで雨の中で傘もささずに立ち尽くしている人を見るような目で僕を見る。無意識に、傘を持つ手を握りしめていた。
「……お前、気付かないのか?」
「……何に、でしょう」
僕をまっすぐ見ていた目が、少しだけ上にずらされた。
「それは俺の傘だ」
声がやわらいで、呆れきったような、でもどこか楽しそうな色になる。
ゆっくりと傘の裏を見上げると、確かに言われてみれば僕の物とは違うような気がする。この前お前んちに忘れて帰ってたみたいだな、と彼が軽い声で付け足すのが聞こえた。
「ああ、……本当だ。これはどうも、すみません」
そうか、――彼の物、だったのか。柄を強く握ったままの手から、意識して徐々に力を抜く。違和感を覚えなかった自分にひどい違和感を覚えた。
「ほら、返せ」
ん、と手を突き出して来る彼に、ああ、とひとつうなずきを返す。言われてからしか動けない。僕の時間だけがワンテンポ遅れているような錯覚。もう一度上を向いて、開いた傘を傾けて下ろす。と、灰色がかった白い空が眩しくて痛い。明るい。思わず目を細めたら、水がぼたぼたと降ってきた。瞼に当たって視界がぼやける。夏服のシャツが濡れていく。剥き出しの腕を水がつたう感触がして、思い出したように背筋が寒い。
「なにやってんだっ」
腕が引かれる。冷えた皮膚に彼の手が暖かくて落ち着く。引っ張り込まれる。軒下。影の中。途端に水が止む。暗さに目がくらんで何も見えない。幾度か瞬きをして、雨粒が入り込んだ瞳をこすった。
彼が盛大に溜息をつく。
何をやっているんだろう。柄を握ったままだった彼の傘は、開いた形で地面に先端を落としていた。ロータリーを歩く周囲の人々の訝しげな視線が恥ずかしい。数秒の内に濡れきった薄いシャツが身体にべったりと張り付く。靴の中も少しぐずる。中に水が入ったのかもしれない。
「長靴をはいてくればよかったでしょうか」
「は?」
「いえ、なんでも」
傘を軽く浮かせて、手を伸ばしてそっと閉じた。できるだけ丁寧に水を払って、くるくると回して、濡れた傘をきれいに留めた。こうして見ると紺色の傘は紛うことなく彼の物で、どうしたって僕の物ではない。急いでいたから気付かなかったのかもしれない。でも、バイトが終わってからだって、気付かなかった。
「あなたはこれを取りに来たんですね」
彼に返そうと顔を上げれば、彼はびしょ濡れの僕を、最初と同じ仏頂面でにらむようにじっと見ていた。苦笑しながら傘を差しだすと、彼の手のひらが伸びてくる。その手は傘を握る僕の手を、素通りして上へ向かった。
暖かい手が、冷えた僕の頭に乗った。水滴を払うように幾度か触れる。撫でるような。軽く叩くような。わざと濡れて遊ぶ小さな子を叱るような仕草で。
「帰ったら風呂だな」
緊張感のない声がそう言って、溜息混じりに笑う。湿った前髪をかき上げられて、僕は目を伏せて黙り込んだ。白黒の頭の中に、色がにじんでじわじわと広がっていく。額にあたる指の熱から逃れるように、きいろい長靴の少女のことを思い出した。もしかすると楽しいのではなくて、叱られたいだけなのかもしれない。困ってくれるのか知りたいだけ、なのかもしれない。それなら彼女も同じように、誰かに止めてほしいのだろうか。雨音の中でも、決して雨の降らない廃墟。僕らが呼ばれることにも、意味や意思はあるのだろうか。
タオルでもありゃよかったんだが、とつぶやいて、彼が僕の肩をぽんと叩いた。それを合図に思考を止めて、僕はうつむいた顔をゆっくりと上げる。
「傘は帰るまでお前が持ってろ。俺が迎えに来たのはお前だけだしな」
言い切って駅へと歩き出そうとする彼に、僕はうなずいて笑顔を返す。止む気配のない雨を背に、閉じた傘を強く握った。
2011.05.22の俺婚プチで配ったペーパーでした
またもタイトルがやっつけである