いつものように静かにノックをしてから扉を開けると、暇そうに机に肘をついてこっちを見ている彼と途端に目が合った。狭い部室をざっと見回すと長門さんがいつもの位置でハードカバーを読んでいるだけで、僕はどうやら三番目の来室者のようだった。僕にとっては珍しく非常に運がいい。日ごろの行いのおかげでしょうか、と脳内に向けてくだらない妄言でも吐いてみたくなるくらい都合がいい。
開けた扉を突き飛ばして閉め、轟音が響くのと同時にいつも通り彼の向かい側にあるパイプ椅子を、今日だけはという条件付きで乱暴に引くとがだだんっ、思った以上に重くて大きな音がした。気にしないで適当に座る。くたびれた鞄を机に叩きつけて置く。震度4の地震でも来たかのように机が揺れて、目の前の彼はちょっと面食らったように僕を見つめ、いったいどうしたのかという主旨のことを修飾語句をたくさんつけた彼独特の口調で訊いた。
「いえね、今日の僕はいろいろなストレスがとうとう限界に達したようで、とても機嫌が悪いんですよ。ですから、」部屋の隅を振り返って「すみません長門さん、読書の邪魔はしませんのでどうかお気になさらず」顔を戻して「ですから、涼宮さんも朝比奈さんもいない今のうちに八つ当たりをしておこうと思いまして」
無意識のうちににこにこ笑いながら弾んだ声でそう言ったら、彼はなんとも形容しづらい、今まで猫だと思って飼っていた動物が実は突然変異の鳥だったと言われたみたいな顔をした。穴が開きそうなくらいまじまじと僕の顔を見てくる。
「…その八つ当たりの相手というのはもしかしな」
「あなた以外にだれがいるんですか?」
笑いながらさえぎると彼は、その猫だったはずの動物が本当に窓から大空へと羽ばたいていくのを見てしまったような顔をした。つまり目と口を見開いた疑問だらけの表情のまま硬直した。なんだかいっそ愉快な気分になってきて僕は声を立てて笑う。
「どうせすぐに涼宮さんがやってくるんですから、その前に」
その前に何をするのか考えていなかったので僕は口を『に』の形に開けたまま言葉を切る。(今この時だけは、僕が笑っているのは涼宮さんとこのふざけた世界のためではないのです。)彼の困惑ばかりの目をじっと見つめ、僕は何も思いつかないまま突然ひらめいたふりだけして勢いよく立ち上がった。付き合いのいい軽いパイプ椅子も勢いよく、がっだだん、大音量でひっくり返ってくれた。僕はあくまで笑顔でゆっくりと机をまわって彼のほうへ歩いていく。彼は座ったまま、若干うろたえた顔で僕を見上げていた。「いや…いや待て、落ち着け古泉」何事かぶつぶつと呟いているようだが僕には聞こえない。
彼の目の前、真正面に立って彼を見下ろす。(見下すではありません。見下ろすのです。似たようなその両者が指すところはしかしまったく違うことを、僕はとてもとてもよく知っていますから。)僕はできるだけさわやかに見えるように笑顔を作った。
「さて、どうしましょうか。そうですね、とりあえず腹とか蹴っていいですか?」
「よくないやめろちょっと待て古泉とりあえず落ち着いて相互理解のために対話をしよう。な?」
僕の質問に間髪いれず彼は非常に早口で否定を告げる。
「あなたの言葉を聞くつもりは毛頭ありません。僕は今イライラしているのでね。
…ああ、もしかしてこれが俗に言う『キレる』というやつでしょうか? なるほど、勉強になりますね」
そう笑ってみせると、彼は本気で狼狽した様子で、パイプ椅子をずりずり引きずりながら座ったまま後退し始めた。僕は苦笑して、両手を広げてやれやれ、と呟いた。
「たまには、少しくらい暴力的にならせてくださいよ」
彼は引きつった笑みを浮かべ、やけに慌てた様子で首をぶんぶんと横に振った。ふと長門さんのほうに目をやると、僕が彼に害をなすことなどないと知っているのか、彼女は僕が部室の扉を開けた瞬間から寸分も違わずに淡々と本を読み続けていた。
「いやほら古泉、暴力はよくない。なんか溜め込んだ文句とか不満とかがあるってんなら遠慮なく言ってくれていいし、ええとほらなんかあの、小難しい長話でもよくわからん理論でも解説でも何でもちゃんと聞く、なほら話せよ、な? 落ち着けって、どうしたんだよ」
細切れの単語をつなぎ合わせた早口で、彼はぎこちない半笑いをする。僕は微笑んで彼を見下ろしながら、彼の諭すような言葉に引っ張られて遠くへ押しやったはずの思考回路と諦観と、その諦観への子供じみた反抗心とが戻ってくるのを感じていた。
「あなたこそどうして逃げるんですか?」
僕はまた、笑うふりをする。彼は一瞬戸惑ったように動きを止めた。
「…僕があなたと涼宮さんに何もできないのは、あなたがいちばんよく知っているでしょう」
ぜんぶ八つ当たりの冗談にしておきたかったのに、笑顔は保てたけれど声に力を込めるのを忘れた。それに気付いて僕はもういい加減面倒になって笑うのをやめようとしてみたがうまくできなかった。立ち尽くす。床に落ちていた視線をためらいながらゆっくりと上げていき、彼の目の中へ。彼はすでに僕を宥めるための笑みを引っ込め、パイプ椅子にまたがったまま少しだけ目を見開いて、僕を見上げて動かなかった。
「本当に、苛々するんです」
そう言いながらも病気みたいないつもの癖でやはり笑ったまま、僕は立っていた。机の足を蹴ろうかと思って目をやったが、それが何の解決になるのか、戻ってきたまともな(まともの定義はこの際知らないふりをしましょう)思考に対する言い訳を思いつけなかったので結局のところなにもしない。
彼はしばらく固まっていたが、やがて静かに椅子から立ち上がると、立ち尽くす僕の腕をぐっと掴んで、お前大丈夫じゃないだろう、と今まで聞いたことのない険しい声で言った。
「大丈夫ですよ。正常じゃないという自覚がありますから」
「…それを大丈夫とは言わん。なにがあった? またハルヒか? …それとも、俺のせいなのか」
僕を見つめる彼の目がわりと真剣で少しだけ悲しそうだったので僕は居心地が悪くなる。さらに生き心地が悪くなる。ついで呼吸が苦しくなってきたところで僕は彼の真面目な顔から目を逸らした。
「いえ、突然荒れてすいませんでした。もう落ち着きました。忘れてください」
掴まれた腕を振りほどこうとしたが、彼は手を離さなかった。こんなことが前にもあった、と軽い既視感を感じて瞬間的に記憶を漁ってみて、それが夢か妄想の中の出来事でしかないと気が付いた。吐き気がする。前にもいつか感じた(いつも感じていたと言ったほうが温情判決を得やすいでしょうか)罪悪感がまた、僕ののどの内側を削る音が聞こえる。僕は惰性で適当に笑った。
「離してください。今涼宮さんが来たら言い訳が大変になりますよ」
平板な声で言うと、彼は右手で僕の腕を握ったまま、今度は左手で僕の胸倉を掴んだ。彼が何かを怒鳴ろうと口を開けた瞬間に、僕はそれを蹴飛ばすように言葉を飛ばす。
「僕があなたに恋愛感情を抱いている気がしていたんですが、どうやら気のせいだったようですね」
穏やかな声で、と祈ったが震えるばかりで叶わなかった。彼は口を開けて僕の左腕と胸倉を掴んだまま、まるでだれかに腹を強く蹴られた瞬間のように、音を成さない短く重い息を吐いた。殴られたいのはこっちだ、と僕は思った。彼の力が緩んだのをいいことに僕はそれらを振り解いて、彼から一歩距離をとってもう一度、だれにでも自嘲だと分かるように笑った。呆然とした顔で僕を見続ける彼にはもう寄らず、僕はまたゆっくりと机をまわっていつもの席に静かに座った。
その瞬間扉が勢いよく開き、
「おっまたせーっ! まったくやってらんないわよ掃除当番なんて!」
よく通る大きな声で叫びながら、涼宮さんが部室へ入ってきた。僕は簡潔な挨拶をして軽く頭を下げる。彼はまだ立ったままで、涼宮さんのほうに機械的に顔だけ向けていたがその目は明らかに彼女を見ていなかった。「ちょっとキョン、なにぼーっと馬鹿みたいな顔してんの? さてはみくるちゃんがまだ来てないからって勝手に頭ん中に呼んだりとかしてるんでしょーけど、あんたの貧相な想像力じゃ土台無理なのよ! 大人しく本物の登場を待ちなさい!」
涼宮さんの怒鳴り声の音量で彼は我に返ったらしく、パイプ椅子にすとんと座り込んだ。涼宮さんに生返事をしながら彼がこちらを向くのが視界の端に映る。僕はさも当たり前のように顔を背けて、閉じた扉へ笑顔を向けた。なあ古泉、と普段聞かない彼の声音が聞こえても、僕は振り向かずに目を閉じていた。
しばらくして涼宮さんと彼が話を始めたけれど、僕はなにも聞こえないふりをして長門さんがページを繰る無機質な音にだけ耳を澄ましていた。
キョン古わりと最初のほう。
殴るより蹴るほうが好きです。