さよなら世界

「古泉、」
 どうしようもないのだ、とはわかっていたつもりだった。
 適当に腕を引っ張って引き寄せて抱きしめると、もたれこむみたいに力の抜けた古泉がかぶさってくる。
「ねむい、ので、ねたいです」
 夜中の子供のような発音で古泉はしゃべる。がらがらががあん、と外でなにかが壊れる音。狂った音階でわめくサイレン。ぱちぱちと焦げ臭い赤い音。BGM、雑音と騒音。この廃ビルもそろそろ、中にいる俺と古泉ごと瓦礫の山になるころだ。張り付いたコンクリートの壁と床がやたらと灰色が濃くて落ち着くようで落ち着かない。
 なによりもうるさいのはそう、悲鳴、悲鳴、悲鳴!
 世界最後のお祭りなのに、まったく、せめて黄色にしておけばいいものを。
「寝たらお前、もう起きらんないぞ。たぶん」
「…ん…、でもねむいんです、つかれてて…」
 幼少時の刷り込みだかなんだか知らないが、古泉は俺の背中に腕をまわしぎゅうと抱いて目を閉じた。遊び疲れてやっと布団に入ったときの、ただの幼子の顔だった。かわいいなあとか、守りたかったなあとか、手遅れな感情ばかりが今更心臓を締め付ける。
 とん、とん、とあやすように古泉の背中を叩く。制服のシャツの白はいまや、赤と黒の汚れで見るも無残な状態。少し寒いな、と思ってなにかかけてやろうと思いついたが、生憎とブレザーの上着はどっかで火消しに使って灰になったんだったっけか。左腕の軽い火傷がずんと響く。右手のひらは煤と血で真っ黒。ああ、もう、パニックもんの映画みたいだな。世界最後の日なんて、いまどき、目新しいネタでもなんでもないのにな。
「古泉?」
 拍子をとっていた手をすっと頬に移動させる。死んだかな、と思ったけれど染み入るような寝息が聞こえた。頭をゆっくり撫でてやる。そうだな、こいつはこいつの愛する世界がこんなふうにおしまいを迎えるのなんて、見ないほうがいいだろう。代わりに俺がこの瞳にこの世界の最後の景色を映したまま、目を開けて死んでやるからな。
「古泉、ごめんな」
 どうにもできなかったな、俺。結局お前は、殉職、殉教!おめでとう二階級特進だくそったれ。ああ、頼むからちゃんと自分のために死んでくれよ。無理矢理連れ出したくらいじゃお前の死の目的語なんか変えられないかもしれないが。
 やりそこねたこと多々、まあそれはどうでもいい。言いそこねたこと多々、悔しくて仕方がない。アイラブユー、好きだ大好き愛してる!んなこたどうだっていい、どうせ伝わっていない。そう、言いそこねたことは多々、しかしそれはたぶん、世界の終焉が無期延期になったところできっと言えはしないんだろうし、やはりどうでもいいような気もする。
 すうすう細い息をする古泉の額に、前髪を手ですっとすくって、軽くキスをする。
 おやすみ古泉。もう、起きなくていいぞ。次にお前が目を開けたら、そこは一面の花畑だ。ゆるやかであったかい風が吹いて、こまごました花が揺れて白や黄色の蝶が飛んで、お前はそこで、にこにこ笑っていられるんだ。世界の、お前が散々守ってきたこの世界の、お前が大事に思うすべてのひとがそこにいて、お前に微笑んでくれるよ。笑うお前を見て、笑ってくれるよ。
 きっと俺はそこには、いない。
 どうしようもないのだ、とはわかっているつもりだったが、古泉はわかっていたんだろうか。
 ほとんど動かない体をさらに引き寄せて抱きしめる。寝てても死んでても、本人にしたら同じかもしれない、同じであるといい。夢を見るように、次の、俺の、ハルヒの、朝比奈さんの、長門の、いない世界へ。お前がしあわせな、世界へ。
 悲鳴、悲鳴、悲鳴! ときどきずっと耳鳴りがすると古泉が言ったことがあったけれど今ならわかる。ばかみたいだ、ごめんな、でも俺は、お前のことが好きだったんだよ。大好きで愛してて、愛しくて、切実に必要としてて、だからそう、好きで、好きで、好きで、…語彙が足りん。あるいは、言語そのものが俺の感情に追いついていない。もう二度とお前に触れることも話すことも会うことも、見ることさえも、ないなんてな。
 がじゃあん、ごごご、と地面が揺れる。見上げたら天井が落ちてくるとわかったので古泉の安らかに閉じた瞼だけじっと見ていた。もういちどだけ、これで終わりだと抱きしめる。古泉は意識があるのか無意識なのか、返事をするように俺の背中をやわらかく抱き返した。

 さよなら、世界。

 俺は最期に顔を上げ、真正面を見据えた。コンクリートの壁の向こうビル街の向こう地平線の向こう水平線の向こう世界の果て、この腕の中のささやかな体温と泣きたいくらいきれいな笑顔、なにもかもこの目に焼きつけて、焼きつけて、俺は今から、死ぬ。

BGMはエルレの The End Of The World で
世界最後の日は大晦日に似ている気がする