弔鐘を待つ

 背中の下のアスファルトは無機質に固く冷たく、仰ぐ夜空は一点の光もない黒だった。普段よりずっと大規模なこの空間で、普段よりずっとたくさんの青い巨人たちがあらゆる建物の解体作業にいそしんでいる。往来のど真ん中に転がって、もう眠ってしまおうか、と僕はぼんやり思う。全身の擦過傷と切れ目の入った腹はもう痛覚が死んだようで、なんとも感じない。ただ、頭だけがとても痛くて吐き気がする。あとは心臓が止まるのを待つくらいしかすることもないので、僕は目を閉じた。助けを呼んでもだれもいないし、助かったところで救われるわけではないから黙っている。昔から何度だって考えてきたことをもういちど、沈みかけた頭で反芻する。これは事実であって言い訳ではないと言い訳をする。
 こいずみ、と遠くから声が聞こえた。軽く速い足音とともに人の気配が近づいてくる。死神がやっと僕を見つけたのだろうか。どうせ幻覚なら彼の姿をしているといいな、と微笑んだところで、それは少し贅沢すぎる気もして、僕は目を開けた。
 望んだとおりの人間が、瞳に映る範囲にいた。驚いたことに幻覚ではないようだった。走ってきたらしい彼はひどく息を切らして、肩で息をしている。いつもより真剣で敏感そうな瞳が、地面に寝転がる僕を上から下までざっと眺めた。彼が苦い顔で舌打ちをするのがわかったので、僕はのろのろ右ひざを立てて動かすことのできる部分もあるのだと示してみせる。投げ出したままのほとんど動かない僕の左腕がぐいとつかまれる。残念なことに彼は死神ではないようだ。
「立てるか」
 腕だけで引っ張り起こされる。大袈裟ですねえ、と言ったらにらまれた。彼の支えでゆっくりと体を起こしながら笑ってみせると、仕方なくと言わんばかりに彼も口元だけで笑ってくれた。目は笑っていなかった。立ち上がった途端、頭痛と吐き気が一段とひどくなった。
「あなたが来てくださるなんて、まったく予想もしていませんでした」
 だろうな、という低く短い返事が耳に届く。彼は文句も言わずに僕に肩を貸してくれた。朱と藍の混ざったような、気味の悪い色に濡れた僕の制服の腹あたりに彼の目がとまる。彼は眉をひそめたが、それでも無言のままだった。怪我についても尋ねなかったし、帰れそうにないと伝えておかなかったことでも、僕を責めはしなかった。
「お手数をおかけしまして、申し訳ありません」
「まったくだ。ひとの気も知らねえで」
 案の定、彼は非常に不機嫌なようだ。まともではない僕の呼吸音も、腹部でどんどん広がる赤い染みも、彼の機嫌を悪化させる方向にしか働かない。歩き始めても会話は会話にもならず、息が上がってきたのもあって僕が黙るとそれっきりだった。そのくせ僕がよろめくたびに、彼は無言で僕の体を支え直す。まるでそうするのが当たり前だというように、彼は僕ののろい歩調に歩幅を合わせていた。
 空間の果てはまったく近づく気配を見せない。そのうち時間の感覚がなくなって、どのくらい歩いているのかも僕は分からなくなる。半日ぐらいは歩いた気もするし、まだ三十分も経っていない気もする。ふと見ると、シャツの腹から下はもうすっかり赤く染まっていた。青い腕が動くのを一瞬だけ視界の端にとらえ、ついで崩壊音と深い地響きを聞く。何度も見て何度も聞いた、何度繰り返しても慣れない景色。ごめんなさい、とぼやけた頭で呟いたら、彼が息を吐く音がした。麻痺していた腹部の痛みが、這い上がるように戻ってきていた。
「終わらせてはくださらないんですか」
 三年前からずっと思っていたことを口に出すと、彼は無言で立ち止まった。僕の肩にまわった彼の腕に急に力が入り、彼のほうへぐいと引き寄せられる。そのままくちびるとくちびるが触れた。湿った熱いものが分け入ってきて、のどを塞ぐ。僕は固く目を閉じた。結構な時間をかけて口内をさんざん動き回ったあと、それはずるりと出て行った。彼の瞼はずっと開いたままだったようだ。なにかひどいものを見られた気がした。
「死んでたら置いてきてやったのに、生きてるのが悪いな」
 伝う涎をぬぐい、彼は顔と顔をぎりぎりまで近づけて、シニカルな感じに、と演技指導されたかのように笑った。ちょっと前まで止まりかけていたはずの心臓が、がたがた鳴っている。息苦しい、と僕は思う。生き苦しい、と僕は思い続ける。
「…それは、惜しいことをしました」
 ばらばらになりたがる意識を掻き集めて笑う。僕の目の目の前にある目が冷たく染まった。彼の手がすっと伸びてきて、僕の腹を探るように撫でさわり始める。反応をする間もなくすぐに、先程から血液を吐き出している部分を突き止められた。
 そこを彼の指が、ぎゅうと押し込む。
 神経が焼ける強烈な痛みが走った。頭の中に白ペンキがぶちまけられる、息が止まる。自分が倒れていくのがわかった。一瞬の空白のあと、僕は彼の胸元に頭を押し付けて、痙攣するように呼吸をしていた。腕が彼の首に巻きついて、その背中に爪を立てるみたくすがりついている。辛うじて立ったままでいられたようだが、自分がなにをしたのかさえわからなかった。
「黙ってろ。笑うな」
 怒り、らしきものに満ちた声が頭の上から聞こえた。激痛に情けなく潤む目の角度を上げると、彼は不機嫌の絶頂のような顔をして、はやく帰ろう、と搾り出すように言った。その表情と言葉がかけ離れすぎていておかしくて、笑いたかったのになぜだか涙が出てきた。彼のシャツで目元をぬぐうと、頭と腹がじんじんと痛んだ。彼はくちびるを噛み締めて、僕の体をさするように抱く。
「捨ててってなんかやらねえからな」
 固くこわばった声が冷酷を装って告げる。帰ろう、古泉、ともういちど、泣きそうな顔で彼は言った。

エゴの押し付け合いを優しさと履き違えてる気がする
それって都合がいいのか悪いのか…