遅い朝ごはんを食べ終えた彼の食器を流しに運んでいると、彼がつけたテレビの中から人の声が緩やかに聞こえだして狭い部屋の白い壁に染み渡る。指に触れるや冷たい水で、皿の上のパンくずが浮かんであふれて押し流されていくのを、まだ少しまわらない頭が眺める。リモコンでザッピングをしている彼はどうやら気に入る番組がないようで、ぐるぐるチャンネルが変わるたびに全然違う声が聞こえる。濡れた手で水を止めて僕は彼の背中を見やった。あぐらをかいて結局他愛無いニュース番組を見始めた彼の退屈そうな後ろ頭は、夏休みに田舎の家に帰ってきた兄かだれかのようにも見える。僕には兄もいなければ、実家に人が帰ってきたのを見たこともないのだが。
表面が少し柔らかくなった手を拭いて冷蔵庫を開ける。昨日の夜食べ切れなかったスイカの残り一切れとともに彼の隣へ戻ってくると、大きくも新しくもないテレビの画面には、どこか知らない県のきれいな川の様子が映っていた。広くまっすぐな川面には強い太陽光が反射して、カメラのレンズとブラウン管を通してさえまぶしくて目の奥に刺さる。映像は橋の上から撮っているのか、懐かしい色合いの街並みが両脇に控えめに続いている。昼間の影は真っ黒で、小さく映る通行人はみな一様に苦い顔だ。窓を開けきって扇風機をつけても気休め程度なこの部屋と同じように、向こうもたぶん打つ手なしに暑いのだろう。
「なあ、この川」
隣の床に座る彼が、のんびりとした口調で呟いた。どうやらどこかの県か街を紹介しているらしいアナウンサーの声が、彼の低い声の下を通る。僕の耳は素直に彼の声を拾う。
「辿ってったら、海までつながってんのかなあ」
しゃがんで彼の隣に腰を落とし、皿ごと冷えたスイカを彼の目の前にそっと差し出した。ラップをぺりぺりとはがしていけば、その端から彼の手が伸びてくる。さあ、どうでしょうね。曖昧に答えて僕は、地理の授業の記憶ではなく彼の横顔に視線をすべらせた。赤い三角のてっぺんのいちばん甘いところを噛んで、彼はしゃりしゃりと涼しげに、思案げな顔をする。
「……そうだ、海に行くってのもいいよな」
夏だしな、と付け足す彼の口元は珍しく楽しそうだった。
目を閉じるまばたきの合間の一瞬に、小学生のころ家族で行った海水浴場がガタガタのコマ送りで浮かんで、「いいですね」飲み込んだ塩水の味が舌の奥のほうにざらざらと鈍く広がっていく。浜辺の母が食べている焼きそばの濃い匂いや、沖へ行く父の腕に抱えられた浮き輪の間抜けな絵柄や、海草が足に絡み付いて姉とふたりで笑ったことや、古い記録映画のような風合いの光景を思い出す。僕は笑って頷いてみせた。僕がほほえんでいる理由を知らない、知らされない彼は不思議そうな表情をして、僕の微笑をじっと見つめてわずかに眉根を寄せた。
「ここにいるほうがいいか?」
僕がもう遠くなってしまった昔のことを話すときはいつも、彼はほんの少しだけつまらなさそうに相槌を打つ。から、僕は伝えなくても済むことは伝えない。でも、それで彼に伝わらなくなるわけでもない。この部屋に二人きりでいる、時間が長くなってきて、なんとなくそれがわかるようになった。
いいえ、と僕は声に出して答えた。海だなんて久しぶりでいいですね。そう笑って付け加えれば、彼はほっとしたように「だよな」なんて言って、嬉しそうな目をした。
彼はスイカを食べるのを再開して、僕はそれを半分くらい気にしながら意味もなくついているテレビを眺める。地域紹介の川の画面は目を離した隙に天気予報に変わっていた。今日も明日もずっと晴れ、時折激しい夕立にご注意ください。汗まみれのシーツを洗って干すのには絶好だ。しゃくしゃく聞こえる咀嚼音、黒い種がかんと皿に落とされて高く小さく響く。放っておいても汗ばんでいく体に緊張感はほとんど残っていないけれど、まだ気だるさは抜けきらない。隣で動く喉仏にそっと目をやって、喉が渇いたなあ、と思った。
そのままふたりでだらだらテレビを見てどうでもいい話をして、いたと思ったらいつの間にか、僕も彼も眠ってしまっていたらしかった。ローテーブルに突っ伏して、下敷きにしていた腕が痛い、赤い。あくびをしながら顔を上げると、未だつけっぱなしのテレビは床に転がる彼の仕業か音量がちょっと落ちていて、ローカル番組がこの近辺のおいしいお店を特集しているところだった。お昼どころかもうおやつどきも終わりかけだ。昨夜はベッドに入ったのも、……眠ったのも起きたのも遅かったとはいえ、せっかく今日は天気が良かったのに。ふたりしてなにをしているんだろう。
暑い。考えることすらままならないままテーブルの上に腕を伸ばして、左の頬をさっきまでと少しずれた位置に張り付ける。気休め程度には冷たいが、すぐに体温が染み込んでいって生ぬるい。目の前にはきれいに食べられたスイカの皮と種があって、皿にこぼれた果汁さえもほとんどが干からびて輪郭だけになっていた。まばたきをするのにも時間がかかる。はしっこに張り付いているくしゃくしゃのラップだけが、眠る前と同じ形を保っているように見える。ずっと同じ体勢をとり続けるのはやはりつらくて、熱気をかき回す扇風機がこっちを向いた時を見計らって、結局僕も彼と同じように床に上半身を転がした。フローリングが背骨にあたって固くて痛い。寝心地は欠片もよくないが、とは言え横になってしまうと一気に眠気が戻ってきた。右に寝返りを打てば、目を覚ます気配もない彼の横顔がよく見える。
まぶたが重たくて、頭も重たくて持ち上がらない。早く立って片付けて、夕飯はどうするつもりなのか彼を起こして聞かないと。思うことは思うのだけれど、クッションを枕代わりに大の字で寝ている彼の足が、まっすぐ投げ出した僕の足にぶつかって暑くて邪魔で、でもそれも重たくて心地よくてどけられない。テレビから控えめに漏れる雑音と大きめの彼の寝息につられるように、とりとめのない頭の中がまたゆっくりと回転を止めていく。あの川は海までつながるのだろうか、歩き慣れた坂道から小さく見える大海と同じところまで。太い川から続き広がる見渡す限りの海は、去年行った孤島のそれとはまた違う、たくさんの人に満ちたざわついた浮ついた場所だ。思い出の中で小さな子供の笑い声がする。不意に、伝えなかったことをさみしいと思った。わかってくれるのになにも言わないやさしい彼の、たった一度きりの高二の夏休みをこうやって共に費やしてくれる彼の、冷えた思い出にいつか僕もなるのだろうか。スピーカーから漏れる人の声の下をくぐる、彼の呼吸だけを僕の耳が無意識に拾う。波の音がそれをかき消す。繰り返さない今年の夏は、小学校の頃の夏休みに似て、永遠に続くみたいにも思える。割りばしの挟まった熱い焼きそばパックをふたつ抱えて、焼けた砂浜をよろめきながら戻れば、彼が間抜けな柄の浮き輪を必死になってふくらましている。明日は山にでも行きたいなんて、きっとまた気まぐれを言い出す彼と一緒に食べる夕飯はなにがいいだろう、はねた水が塩辛くて、足の指が砂に埋もれる。
不機嫌そうなうめき声がかすかに景色を揺らした。彼が寝返りを打って、僕のすねを蹴り飛ばす。近づいてきたぬるい呼気が額にかかってくすぐったい。僕が彼の記憶として風化するまで、夏はあと何度巡ってくるのだろう。せめて二人で海へ行けたら、色の抜けない思い出をまたひとつ塗り潰して、彼に伝えられない世界を忘れることもできるのに。僕が彼のために犯せる偽善はそれだけだ。話せないことをなくすだけ。すがるように足をからめれば、まとわりつく高い体温が僕の意識をぐちゃぐちゃに溶かす。閉じたまぶたの中で太陽光が反射して、くらんだ視界は真っ白く、もうなにも映さなかった。
古泉は良くも悪くも時間が人よりゆっくりそう
たぶんキョン的には寝てただけなので一瞬の話です