古泉ってだれだっけ、とか唐突にうそぶきたくなった。はあ?と不思議そうな顔がこっちを向く。「だれだっけ」「なんかの冗談?全然おもしろくないんだけど」そうだよなあ。俺もそう思うんだ。
放課後部室に行ったら古泉がいたから他人に向ける作り笑いで同じことを聞いてみた。
「古泉ってだれだっけ」
ひとりで突っ立っていた古泉は口元に笑みをたたえたままなんだか息が詰まったみたいな顔をした。驚いてんのかね。わかりづらいやつだな。「だれだっけ。知らねえかな」もういっかい問うと、古泉は下を向いた。床になんか書いてあったっけ、うまい突っ込みのカンペかなんか? しかし下を見ても見事なコンクリートが視線を断つだけだった。まあそりゃ世界はそんなに都合よくはできてないよな。
「だれでしたっけね」
古泉は震える声で震えているのを隠そうともせずに言った。よく見ると肩も小刻みに揺れている。なんだこの反応。
「こいずみ…ですか。だれでしたっけね。少なくともここにはいませんから、あなたがおぼえていない、なら、さいしょからそんな人はいなかったんじゃないですか」
声が湿り、すぐにあからさまな泣き声になる。あなたがなにもおぼえていないなら、と古泉は念を押すように繰り返した。下向いたまま両手で顔を覆って、って、女の子みたいな泣き方すんなあ。今まで俺がなに言ってもなにやってもこういうふうには泣かなかったくせに。いつもならもうちょっと取り繕って笑おうという努力が見られたもんだが、ついにはそれもあきらめたのか。
それとも自分をまったく知らない相手にはこいつ嘘つかないのかもしれない。卑怯だな非可逆なのに、人間関係とかこの世のすべての出来事とか。
「知らないのに、なんだよ、お前が泣くことなのか?」
呆れてそう聞くと古泉はゆるゆる顔を上げた。眉は八の字、目元まっか。涙だらだらで、のどはひきつったみたいに動いている。それはなんとも思わないんだが、普段笑ってるくちびるが震えてるのだけは、なんというか、嫌だからとめてやりたいと思う。
「あなたがそのひとの存在を忘れたなら、たぶんもう、そのひとのためになんてだれも泣いてくれないんです」でも僕自身は泣く必要はないし泣かないでいる必要もないはずなのに、おかしいな。
泣きながらしゃべるせいで音程がぐちゃぐちゃだ。他人のふりするなら無理して返事する必要なんかないと思うんだが、変なところだけ律儀だな相変わらず。
「そうなのか。気の毒な奴なんだな。でも俺はそいつがだれなのか気になって仕方がないんだよ」
古泉は涙の筋を拭いもせずに俺をじっと見た。なんだってそんな、意思の籠らないまっすぐした目ができるのか。目を逸らしたら負けのような気がしたので目を逸らした。八百長でもなんでもいい、たまにはこいつにも勝利が必要だろう。古泉は仕切り直すようにいちど大きくしゃくりあげてから、かすかに震うくちびるのはしを上げ、しかし結局また同じ泣き声を出した。
「忘れていいですよ。神様がそう言ったんでしょう? だったら忘れるべきことなんです」
今度は俺が息が詰まったみたいな顔をすることになった。なんでここで宗教が出てくるんだ。そろそろ罪悪感みたいなものが湧いてきて俺は下を向いた。カンペはどこだ、カンペは。うまい謝罪方法とすべてをどっきりで済ませる台本を早く見つけねばならない。
しかし床は相変わらずコンクリートだったので、ああもう、勢い俺は涙まみれの古泉に飛びかかってヘッドロックをかまし、それからその頭をぐしゃぐしゃに掻きまわしてやるしかなかった。
「ばかやろう、お前はいつもそうやって口を開けば涼宮さんがそう言うから涼宮さんがそう願うから涼宮さんがそう望むから、涼宮さんのために涼宮さんのためにって、」いい加減にしろよこの
「ばか古泉が!ほんとに忘れるぞ!」
思い切り怒鳴ると、古泉は俺に捕まったままで、びくり、と震えた。湿ったくちびるはまだすきまからハ行の音を出してがたがた揺れている。それを見たら俺は熱が冷めるみたいに急に悲しくなってきて、「冗談に決まってるだろう」泣くなよ、古泉、といまさら思ったのでそう口に出したら、古泉は全身の力が抜けたようにへたりと座り込んだ。肩が大きく、呼吸で上下に揺れていた。「こいずみ、」どこにも合わせられない視線がふらふら、そんでもって贖罪ついでに名前を連呼したくなる。「こいずみ、なあ、」お前は最初からずっと
「古泉」 で、これからもずっと
「古泉だろ、」 お前が
「こいずみ」 で、それでだれも文句言わないから、俺だって
「お前が古泉なのがいいんだから、だからもう泣くなって」
悪かったよ、とつけたしたら古泉はまた下を向いて、こんなのひどいです、と消え入りそうな声でつぶやいた。ごめんてば、と返しても古泉は頑なに黙りっぱなし。「ごめん、ごめんって、なあ」反応なし。俺は謝り続けながらだんだん泣きたくなってきて、呼吸のたびに揺らめく古泉の肩を後ろから抱え込んだ。
「だってお前がこんなに簡単に動揺するなんて思わなかったんだ」
こんなことで、と俺の腹と古泉の背中をぴったりくっつける。古泉はまたひくり、としゃくりあげた。背中に耳をくっつけると古泉の中身が生きて動いている音がきこえた。
「あなたが覚えていてくださらないと、僕は僕がいるのかいないのかわかりません」
ああ、ごめん、もういっかい俺は背中でうなずく。古泉の音をきいているとなんだか不思議な気分になる。ネバーランドとかユートピアとか桃源郷とか、天国とかを連想させる穏やかな音がきこえる気がする。でもそれって生きているって音なんだろうか。「忘れたら、忘れてもいいですけど、まだ覚えていてくださるなら、まだ覚えていてください」古泉はまだ泣いている。俺は腕にもっと力を入れて古泉を抱きすくめた。ネバーランドとかユートピアとか桃源郷とか、天国なんてところにいかれてしまったら俺は嫌だ。「覚えてっから、忘れねえから、泣くのやめてくれよ。頼むから、謝るから」どれだけ強く抱きしめていたら引力に勝てるんだろう。
古泉はずずっと鼻をすすり、「泣かなかったら忘れませんか」とか言った。忘れねえってば、と俺はまた繰り返す。
「いつだって泣いていいんだ、けど今はやめてくれたら助かるし嬉しい」
「…じゃあ、やめます」
ひく、ひく、と古泉は残響みたいに泣いて、それからしだいに、ほんとうにゆっくりと、泣き声は静かな呼吸の音に変わっていった。
「久々に泣いたらなんだかすっきりしたかもしれません」
そりゃあよかった。俺がちょっとだけ安心したら古泉はいつもの笑顔に戻った。笑いながら、でもこういうのはほんとうにそうなったときだけにしてください、と普通の口調で言った。「悪かった、ごめんな。二度と言わねえよこんなの」心の底からそう思ってそう言う。そんなときが来ないように俺は手のひらを握りこめる。古泉は肩をすくめて、安堵に満ちた顔で笑った。
(古泉ってだれだっけ。目の前の男に問うとそいつは目を見開いて、目を閉じて、止まった。だれだったっけ。もういちど問うと、そんなひとはいませんでしたよ、はじめから、と言う。そっか、じゃあやっぱいいや。気のせいかなんかだ、悪かったな。背を向けて歩き始めて数歩、なんとなく振り返ると男はくちびるを震わせながら、ネバーランドとかユートピアとか桃源郷とか、天国なんてところにいるかのように笑っていた。)
小泉ってだれだよ。違います、古泉です。
各所で誤植多すぎだろいい加減にしろこのやろおおおさすが古泉