白の向こう

消失~陰謀本です。陰謀本なんです!
「でっどえんど」は前日譚的に微妙に尾を引いている感じです

2010.03.21.

白の向こう

 待ち合わせの時間、約束したいつもの場所に古泉の姿は見当たらなかった。
 せっかく人がマラソン選手くらいの心理的速度で自転車を飛ばしてきたというのに、まったくもって失礼なヤツだ。少しだけ上がった息を整えながら携帯を開いてみれば、待ち受けにでかでかと踊るデジタル数字はたった今午後の始まりの六十秒がおしまいになったらしいことを告げていた。なんてこった、遅刻してきたのに古泉がまだ来ていないのか。珍しいこともあるものだ。きょろきょろと首を振り回してみるが、昨日も会ったばかりの見飽きたにやけ面は、少なくとも見える範囲には影も形もなさそうだった。待ち合わせでも相手が来なければどうしようもない。仕方なく俺はその場に立ち尽くして、未だ冬めかしいままの空気の中でしばらく案山子の真似事をしておくことにする。
 まあ古泉だって珍妙な肩書きを持ってはいても一応人間であるからして、たまには遅刻やら寝坊やらうっかりすることもあるだろう。しかも今日は相手が俺単体だしな、気を遣われていないってのは喜ぶべきなのか怒るべきなのか。それに、ハルヒ的ルールを団活外でも踏襲するとすれば、この後の昼飯代は古泉に押し付けてしまえるかもしれないわけで、そう考えればさして腹も立ってはこない。それ以前に本人が遅れた詫びだのなんだのと理由をつけて自らおごりを進言してきそうではあるが。まさか経費で落ちるんですなどと言い出すんじゃないだろうな、実に払わせがいのない野郎め。
 しかし、休日にランチを二人きりでなどという格好のシチュエーションで一方的におごられるのも、想像してみるとなんとなく癪に障るな。かと言って別に俺の懐がぽかぽか春陽気なわけは当然ないのであって、大体昨日だって例のごとく五人分の喫茶店代は俺持ちだったのだ。ここは大人しく割り勘にすべきだろう。別会計だ別会計、まとめてお支払いでかっこつけるのはもっとお財布が重たく分厚くなってからでも充分間に合う。
 そんな感じでくだらないことをつらつらと考えながらも、俺の目線はさっきからしきりと周囲をサーチライトのようにうろつきまわっていた。そろそろ申し訳なさそうな微笑をたたえた古泉がそのへんから小走りで出てきてもいいころのはずなのだが、どっちにもこっちにもその気配は皆目感じられない。普段からルーズなヤツならこの程度、またかとか言いながら余裕で待っていられるくらいの時間しかオーバーしてはいないのだが、無駄に律儀な古泉の遅刻にしてはちょっと度が過ぎている気がする。やっと漠然と不安になってきて携帯を確認してみたものの、古泉からの連絡はメールも電話もなにも入っていなかった。
 もしかしてなにかあったのか? また臨時バイトだの緊急会議だの報告書が〆切に間に合わないだのとかそういう面倒な話なのか? ハルヒがいつも通りはしゃぎまわりながらミステリー探しツアーをやってた昨日の今日で、そんなに深刻な事態が発生しているとは考え難いが。開いた携帯で古泉の名前を探す。案ずるより生むが易し、は使い道が違うかもしれないが、とにかくここで俺が思い悩むより本人に直接聞いたほうが早いに決まっている。普通に呼び出し音が鳴り出したことに若干安心してしまいつつ、いっそ寝ぼけ声で慌てふためく古泉が電話の向こうにいてくれないかとも思いながら応答を待つ。
 いつもなら大抵スリーコールで出てくる古泉は、しかしいつまでたっても返事をしては来なかった。一旦切ってかけ直してみても同じ。聞こえるのはひたすらに電子的な呼び出し音だけだ。爆睡していて着信音に気付いていないとか、携帯の近くにいないという可能性もある。もしくは、それどころではないくらい忙しいのかもしれん。なんにせよ、俺との約束よりも重要度が高いことが他に起こっているのだろう。そりゃバレンタインデーの女子へのお返し(決して山登りと穴掘りに従事させられた仕返しではない)の相談なんぞさして危機的な問題でもないだろうが、だからと言って下手に手抜きでもしてうっかり粗がバレようもんなら、団長様は容赦なく加減を知らない罰ゲームを嬉々として繰り出してくるに違いない。あなどるなかれ、ハルヒのイベントにかける無意味で無駄に本格的な情熱。
 しかし古泉はこういう計画を立てるのが実益を兼ねた趣味みたいな奇特な人間だったはずで、そもそも昨日は別れ際に妙に嬉しそうに目配せしてくるぐらいにはやる気があったように見えたのだが。なにも受信しない画面を睨んでリダイヤル、単調な呼び出し音を辛抱強く聞き続けてみても、声が帰ってくる気配は相変わらずしない。発信履歴に古泉の名前がずらずら溜まっていくのがなんとも言えないが、その数が増えていくにつれ徐々に不安もいや増していく。なにかがあったにせよ、なにがあったかくらいは情報をくれたっていいだろうに。古泉がわりと不安定な位置にいるらしいことは分かっているつもりだが、だからこそスタンドプレイじゃなくて連携が必要なんじゃないのかと言いたい。縦割り行政は組織の機能低下の一因だぞ。
 こらえ性もなく何度も何度もかけ直しているうちに、古泉の自宅に直接様子を見に行ったほうが手っ取り早いような気になってきた。我ながら心配性が過ぎるが、まあ古泉の場合万が一ということもある。薄い体にぐるぐる巻かれた包帯やらそこにかすかに滲む黒に近い赤色やら、それほど前のことでもないのに頭の奥底に押し込めていた記憶がずるずる浮かび上がってきて、無意識に握り締めた文明の利器が軋みだす音で我に返った。また俺の知らないうちにあんなことになってんだとしたら、今度こそどうしてくれようか。古泉の家まではチャリでぶっ飛ばせばそんなにかからないだろう。最悪行き違いになるかもしれないが、それならそれで、そんときはそんときだ。
「よし」
 行くと決めたら早いほうがいい、駐輪場へ向けて元来た道を逆走しようとしたところで、
「…………長門?」
見慣れた制服姿を視界の端に捉えて、俺はぴたりと動きを止めた。



 左腕をコートに通したところで、久しぶりの天啓みたいな違和感が湧いて硬直する。一秒と置かずに携帯が震え出して、これでいとも簡単に今日の約束はご破算だ。僕はコートに右腕を通してから携帯を黙らせ、小さく溜め息を吐いた。行き先が変わった。ここからは結構な距離だ。大きさは中規模のようだが、現在もじわじわ拡大中。往復の移動時間も考えれば、帰ってくるころにはもう日が落ちているだろう。
 腕時計に目をやる。待ち合わせの時間はもうすぐだ。きっと彼はいつものようにギリギリにしか来ないだろうし、もしかしたらまだ自宅にいるかもしれない。それなら今すぐに連絡すれば無駄足を踏ませずに済むだろう。
 それなりに重要な用事ではあるけれど、なにがなんでも今日でなければならないわけではない。すみません、バイトが入りましたので約束はまたの機会に、とでも言えばいいだけだ。多少彼のご機嫌を損ねることになるかもしれないが、昨日も会ったし明日も会うのだからいくらでもフォローはできる。優先順位は彼だって理解してくれているはずだ。その割にはいつも釈然としない顔をされる気はするが。
 電話をしようと着信履歴から彼の名前を表示したところで、外から車のエンジン音が聞こえてきた。耳慣れた低音、早くも黒塗りタクシーのお迎えが来たらしい。手を止めてコートのポケットの中に携帯を滑り込ませる。空間の拡大が続いている以上、可能な限りの速度で急行すべきなのは今までの経験から皆よく分かっていることだ。靴をひっかけるように履いて、僕はそそくさと部屋を出る。
 外は快晴、けれども肌に触れる冷えた空気は春の陽気には程遠い。少し離れた道路の脇に寄せて、黒光りする車が暖機のまま止まっていた。小走りに駆け寄って、短い挨拶とともに頭を下げつつ後部座席に乗り込むと、すぐに車は走り出した。タクシーの独特な匂いと真っ白なシートの感触で、脳内の回路が自動的に切り替わる。行くはずだった場所とはまるで違う、これから向かうのはどこか遠くの、名前しか知らない街の一角だ。どうせどんな景観だってゴーストタウンで瓦礫の山になっているわけだから、見知った街よりはまだ多少は気が楽だとも言えるが、大して慰めにもならない。
 窓の外に流れていく家々と人々を眺めながら、久しぶりに発生した彼女の憂鬱の原因を思う。昨日の不思議探索ではいつも通り元気いっぱいなように見えたし、取り立ててなにもイレギュラーな出来事は起こらなかった。今日は日曜日だから、団員のだれかとの直接的な問題ではなくて、他になにか良からぬことがあったと見るのが妥当なところか。お昼時に悪夢を見ているわけもないだろうし、ただの気まぐれで一時的なものならいいのだが。
 なにがあったにせよ、ぼんやりと、しかし自明のこととして、そのなにかがまだ進行中の出来事であることは分かる。彼女の気分は未だどんよりと停滞している気配で、理由も詳細もそれ以上なにも知りえないのに、なんとなく自分の心臓まで重量を増していくようだ。彼女が苦しんでいるのは自分のことのようによく分かるのに、僕には彼女を慰めるための手立てがなにも与えられていない。許されているのはせいぜい、彼女の憂鬱が世界にまで影響を及ぼさないように食い止めることだけだ。それは世界のためにはなるのかもしれないが、彼女のためにはなにひとつ役に立たない。能力者と涼宮ハルヒは深くつながっているようで、実はかけらも関係してはいない。
 唐突に、去年のクリスマス前の彼との会話を思い出す。『あなたは知らないでしょう。』そう言ってはねのけた親切で手軽な彼の同情も、思い上がった子供みたいな自分の言葉も、そのときはきっと間違っていなかったはずだった。ただひとり涼宮ハルヒと現在のすべてを共有し続ける彼に、あの日からずっと見てきただれも僕もそんなことを、教えようとは思えなかった。
 ベッドで目が覚めて以降どこか違う彼の態度も、吹雪の山荘で聞かされた話も、先日彼と交わしたいくつかの会話も、頭の中で繰り返すほどに腹の底に淀んだものが溜まっていくのがよく分かる。今更のように実感を伴った事実が、鉛のように重たくて冷たい。彼はたぶん本当に選んで選ばれて、そして僕は知りも知られもしないまま。結局のところ、彼女が認識し必要としているのは彼だけだ――
 彼に連絡を取って、彼女に電話でもしてもらおうか。そう思ってポケットに手を入れたところで、
「あ」
 約束のキャンセルを伝えるのをすっかり忘れていたことに気が付いた。慌てて引っ張り出した携帯の液晶は、彼の名前が表示された画面のままで止まっている。ふと顔を上げると運転席の新川さんが心配そうに横目でこちらを伺っていて、なんでもないですと適当に笑って首を振る。画面の端に映るデジタル時計は待ち合わせ時間から半時ほど後の時間を示していた。思わず腕時計にも目をやると、長針はやはり約束の時間を盛大に振り切っている。
 やってしまった。彼が怒っていないことを祈りつつ、そんなわけがないこともなんとなく予想がつく。携帯を握る手が汗ばむのを感じながらどうにか納得させられそうな言い訳を考えていると、どうやら着信が入っているらしいことに不意に気付いた。案の定というかもちろんというか、彼だ。しかも一回ではなく、約束の時間を少し過ぎたあたりに集中して、数分と置かずに何回も。考え事に熱中していたからか、そもそも待ち合わせのこと自体しばらく頭から飛んでいたようだ。まったく気が付かなかった。
 ともかく連絡をして謝らなければならないだろう。通話ボタンを押しかけて、相手のリアクションを想像してなんとなく怯む。無為に待たせてしまっただけでも申し訳ないのに、今日の約束自体がキャンセルとなると、彼の朝寝坊や予定のないのんびりした時間などなどは完璧に無駄に失われてしまったわけだ。彼曰く何物にも代え難い休日の片方はすでに不思議探しに費やされているため、残りの大切な休みを台無しにしてしまったのは誠に忍びない。きちんと謝罪の意を伝えるべきで、ならば直接会えない以上電話口で謝るのが次点の策だろう、――が。
 メール作成の画面を開き、僕は簡潔な謝罪文を打ち込んだ。ためらわずにそのまま送信する。また明日学校で、もしくは帰ってから電話で謝ろう。そのころには彼もどうでもよくなって機嫌を直しているかもしれない。我ながら情けない気もするが、『機関』のお偉方に叱責されるのはもうさしてなんともないのに、彼や彼女に怒られるのはどうも非常に苦手だ。彼の感情や彼女の感情は、僕に直接ぶつけられるにはあまりにも澄みすぎているように思う。
 窓の外の景色は、いつの間にかまったく知らないものになっていた。顔を上げた僕に、まだしばらくかかります、と落ち着いた声がかかって、車がゆっくりと信号停車した。横断歩道の前で歩行者用信号が変わるのを待っている少年が、向かいにいるらしいだれかに大きく手を振りながら笑っている。反対側の歩道に目を向けてみたが、右折待ちのトラックに遮られて、相手の姿は見えなかった。
 握ったままの携帯が振動する。彼からの返事が来たようだ。



 残り半分になった缶コーヒーはあっさりと外気に迎合し、もう湯たんぽ代わりにはなりそうもなかった。手首だけひねって中身の黒い液体をぐるぐるとかき混ぜながら、手持ち無沙汰に隣に座る無表情を見る。この寒いのにつめた~いの列に並んでいた炭酸飲料を無言で選択した長門は、特に感想もなさそうな瞳で時折思い出したようにアルミ缶を口元に運んでいる。引き止めることになって悪かったかもしれないな、どこか目的地があって駅前にいたんだろうし。長門が自ら出向いて行きそうな場所というと図書館か本屋くらいしか思い浮かばないが、駅のほうに来てたってことはなんかマイナーで魅力的な新刊でも探しに行くところだったのかもしれん。
 ひっそりとベンチに佇む制服プラス薄手のコート姿な長門は、しかし案の定自らなにも言い出すつもりはないようだった。俺も暇といったらこれ以上ないほど暇には違いないので、横にだれかがいて話し相手になってくれるというなら願ったり叶ったりではある。あるのだが、なんとなく今は隣の文学少女が物静かに沈黙を共有してくれることのほうに最大の感謝を捧げたいような、たとえるなら降水確率九十パーセントの晴れた午後に雨乞いの踊りを踊るべきか否か悩んで空を見上げ続ける新米天気予報士たちみたいな、要は簡単に言ってしまえばどうにも妙な気分だった。
 尻ポケットにねじ込んだ携帯を引っ張り出して、受信箱のいちばん上にある無題のメールをもう一度開く。
『バイトが入りました。連絡が遅れてすみません。』
 以上、必要最低限で味も素っ気もない文面おしまい。
 これほど分かりやすく要点だけまとめられるんだったら、普段話すときももうちょっとその能力を活かしてほしいもんだ。というかこんな短文ですみませんとか言われても、謝る気があるのかないのかも分からんどころかむしろ腹立たしいだけだ。大体このすみませんはなんだ、連絡が遅くなったことにしかかかってないのか? 心配料は別枠だってこいつはハルヒに教わらなかったのか?
 そもそもバイトってのは毎度おなじみ照明係不在のへたくそかつ微塵も愉快でないヒーローショーみたいなののことで間違ってないんだよな。昨日のハルヒは長期休みに入る前日夜の妹よりもハイテンションに、長門を抱き人形みたいにあちこち引っ張りまわしながらどうやってもウインドウショッピングにしか見えない謎探しを敢行していたと思ったが。団長の独断的殺人的スケジュールによって期せずして希少価値を付与されることとなった一日休みの日曜にまで、一体なにがかなしくて精神世界にひきこもってイライラうじうじしたり約束を破って強制労働に従事したりせねばならんのだ。
 今さら俺には怒る理由も意思も権利も相手もない。電源ボタン一発で空白だらけのメールを待ち受け画面に戻して閉じて、すっかり冷え切った微糖コーヒーを一気にあおる。温度と一緒に甘さも飛んだのかやたらと苦く、喉に流し込むように強引に缶を空にした。
「あーあ、さみいな。……寒くないか?」
 百二十円の缶ジュースを大事そうに両手で握る長門は、首だけをまわしてゆっくりとこちらを振り向いた。小さな頭がかすかに横運動をする。透き通るような瞳はべつに嘘を言っているわけでもなさそうで、というか長門は俺にそんなくだらん気遣いをする必要もなさそうだ。だとしてもまあ、もうちょい厚着してくればよかったな。
 三寒四温ってやつなのかなんなのか、暦の上ではとっくに春が到来しているはずなのに、マフラーを巻いてこなかった日に限っていまいち暖かくならないのはだれの陰謀なんだろうか。お天気お姉さんか気象庁か、クレームはどこにぶつければいいんだ? くそ、こんな日には暖房の効いた部屋でこたつにもぐってつまらんテレビでも見ながら猫と昼寝するのが俺の使命みたいなもんだったんだがな。でなけりゃお返し計画立案を名目に適当にメシ食ってうろうろしてしゃべくってついでに家まで押しかけてまたメシ食ってよろしくしてから帰るとか、そういうのが。
 こくり、とごく小さな音がして落ちていた目線を上げ直すと、長門の細い喉が液体を通して鳴る音だった。唇から缶を離して、まったく元通りの位置に腕を戻す完全な仕草が逆に懐かしいほど自然に見えて、知らないうちに引き結んでいた口元がほころぶ。
「……大丈夫なんだろ」
 そのままの口調で尋ねれば、長門は気温と変わらないような視線で俺を見据えた。
「おそらくは。ただし保証はできない。さきほどと同じ答え」
 俺の答えともたぶん同じだ。それでも他でもない長門の口から繰り返されているというだけで、無責任な安堵が体を覆う。
「閉鎖空間は、今もまだ消滅してないんだよな」
 博識な宇宙少女はこっくりとわかりやすく頷いた。
「時間経過とともに漸次拡大中」
 なるほど、久々だろうし苦戦中なわけか。もしかすると、古泉のらしくないメールも切羽詰まりすぎて無理矢理送るだけ送ったもんだったりしてな。へらへらした余裕しかなさそうな顔が焦りの色に染まってテンパってる様を想像すれば立った腹もあっさり引っ込むが、それはそれでどこか釈然としない気分がする。
 夜店で売ってる水風船クラスの俺の器はすでにいっぱいいっぱいなのだが、ここらで踏ん張って大海程度まで拡張リフォームしておく必要があるのかもしれない。……し、他にもっとすべきことがあるのかもしれない。それは、手始めに古泉へのねぎらいの言葉のリストアップあたりから始めるべきなのか、それとも無言で各方面への遺憾の意を表明するところからにすべきなのか、そんな感じの選択と似通った問題なんだろう。しかしどちらにせよ、決断を急ぐことではなさそうだった。残念なことに、時間は思ったよりかなり有り余っているようだからさ。
「あなたは」
 押し殺した溜め息を聞き咎めたのか、唐突に発された言葉は長門による本日初めての自主的な問いかけだった。磨いたビー玉みたいな瞳の照準が、俺の両目に合わさってぴたりと止まる。続きを聞き逃すまいと俺もつられて一時停止してみたものの、数秒待っても鼓膜を震わすのは駅前に飽和する環境音だけだった。空洞を形作る薄い唇は、言おうとしたことに該当する単語が検索にヒットしなかったとばかりにフリーズしている。
 しばしの沈黙の後、
「……あなたは、いや?」
観念したように端的な質問がつぶやかれた。
 いつものように無駄がなさすぎて意味が分からん。その疑問文には主語と述語しかないんだが、目的語に入るのは一体なんだってんだ。いや、正直完全に分からないわけではないような気もするのだが、だとしても俺はなにを答えればいいんだ。
 情報不足から返答に詰まる俺に、長門は原始的な言語の不完全さに困り果てた高度に文明的な異星人のような視線を向ける。
「涼宮ハルヒの力。また、現在の精神状態。――もしくは、古泉一樹の持つ能力のこと」
 俺はたぶん、たとえるなら、降水確率九十パーセントの晴れた午後に同僚の新米天気予報士が自ら予報の間違いを認めだしたときのような表情をしていた。
「どちらが、あなたの」長門の瞼が半分まで閉じられて、普段目立たない長い睫毛が綺麗に見える。
「……あなたが、溜め息を吐いたのはなぜ?」
 もう一度ひらかれた深遠な瞳の中に、去年の終盤、冬の真っ只中で出くわした黒い制服の男女の影が映りこむ。今度こそ俺は返答に窮した。今はもうどこにもいない、なんの力もない普通の高校生のハルヒと古泉。ハルヒか古泉? 神さまか超能力者? ……溜め息の理由?
 頭を抱えるふりをして、俺は手のひらで目元を覆う。塞がれた視界は真っ暗になって、俺はぼんやりと古泉が今いる世界のことを考えた。それから昨日のハルヒの核融合的明るさを放出しまくる笑顔を思い浮かべて、ついでに髪の長いハルヒが最初にたたえていた苛立ちまみれの不機嫌顔を思い出した。
 長門はまだ、穴が開きそうなくらいまっすぐに俺を見ている。
「……どっちも嫌になんねえからなあ」
 苦笑いで吐き出した返事に、
「…………そう」
長門はただ頷いて、それきりなにも言わなかった。質問と答えがかみ合っていたのかどうか、俺には正直分からない。分からないが、長門は眼鏡がないほうがかわいいと思うし、ポニーテールに少し足りない長さの髪を揺らして笑うハルヒはいつだって最高に楽しそうなほうがいいのだ。
「そうさ。待つのだってそれほど退屈なわけでもない」
 そしてそれ以外、俺にできることはきっとない。
 俺はベンチから立ち上がって、長門の前に手のひらを差し出す。空いたほうの手でコーヒーが入っていた黒い缶をふらふらと揺らしてみせれば、心得たようにわずかに頷いて、長門は両手で俺の手のひらに缶を立てる。そのまま下から握ってみると、ほとんど気のせいに近いようなほんのわずか、低い体温が指に移った。



 じわじわと未だ拡大を続ける空間の中に、無秩序に青い巨神が乱立している。遠くからでも見える長い腕が切れ味の悪いギロチンみたいに振り下ろされ、地鳴りのような響きとともに足元から衝撃が伝わってきた。日本全国どこにでもあるような住宅地の一角はあっさりと粉々になり、後にはばらばらになった破片の山しか残らない。すでに空を走り回る赤い光がいくつか見えているが、どれも絶好調というわけではなさそうだ。
 ぱっと見では大荒れのように思えたが、よく見れば巨人たちの動きはてんでまちまちらしかった。なにがそんなに気に入らないのかというくらい暴れまわる巨人がいるかと思えば、動く気力もないと言わんばかりにただ呆けているものもいる。彼女の精神の不安定さが一目でわかる光景だ。あまり嬉しくはない。このところは楽しそうにしていたように見えたのに、本当に、なにがあったんだろう。
 ぼやけた赤に薄く染まる視界の中から、適当に狙いを定めて一直線に飛んでいく。高い建物が少なくていつもよりは動きやすいが、逆に言えば身を隠すところがない。不意を突かれないよう気をつけながら、行動をためらうように固まったままの青い異形の腹へ、真ん中に思い切り突っ込んだ。
 三百六十度すべてが青一色になって、小さな子供に押し返されるのにも似たささやかな感触に強い拒絶と悲鳴が聞こえる。無理矢理切り開いていく巨人の腹の中には形を持つものはなにもなく、彼女の想いがなにか示されることもない。そのまま向こう側へ抜け切ってしまえば、渦巻いて粘つく藍色が体中にまとわりつくような悪寒が走る。
 通り抜けた先に見える航空写真みたいな景色は、相も変わらずねずみ色にひっそりと時間を止めていた。くるりと大きく旋回し、反転して急加速してまた突っ込む。同じ動作を何度か繰り返してみると、動きの悪い彼女の憂鬱は割合簡単に、どろどろとした液状に溶け出し始めた。
 ぐるぐると飛び回りながら僕は、道路や住宅の上に青色の光が降り注いでいくのをずっと視界の端に捉えていた。彼女の真剣な感情をこんなふうに無残に解体するだけの人間に、それ以上の権利が与えられないのはやはり当然に思える。僕たちが会うことのできる涼宮ハルヒはいつだって不機嫌で、退屈そうで、つまらない世界のことが大嫌いだった。今ではそれが過去形になっても、この世界の色と静寂はいつまでも同じだ。
 ――でも、それでも、そうじゃない。なにも変わらないわけじゃない。
 空を切って次の目標へ迫りながら、僕はまぶたの裏に彼女の掛け値なく楽しそうな笑顔を思い浮かべる。二人きりの時だって、彼女はちゃんと笑ってくれた。クリスマス前だというのにあんなにしんとした病室で、ろくに気も遣えなくなって唇で笑みをかたどっていただけの僕にも。

『……あーあ、ヒマよね。まーだ起きないのかしら』
 彼のぴくりともしない寝顔をじっと見下ろしていた彼女は、唐突に早口でそう切り出した。
『こいつの顔なんか見ててもどうしようもないわ、全然時間経たないし。相当ヒマでしょ、古泉くんもさ』
 腕を上げて大きく伸びをしてから、振り向いた彼女の瞳はまだ少しだけ揺らいでいた。それでもあの鈍い音がして以来たぶん初めて、明確に綺麗な光が宿っていた。やわらかくほほんでいたと思う。
『あたしいいこと思いついたんだけどさ、古泉くんにもちょっと手伝ってほしいのよね。リンゴいっぱい剥いてるよりたぶん絶対面白いわよ。寝てるキョンはもちろんとして、有希とみくるちゃんにも秘密にしたいの!』
 副団長を見込んでの極秘任務よ! と彼女は僕に人差し指を突きつけた。
 大きな大きな模造紙を、年季の入った木製テーブルの上にいっぱいに広げる。太いカラーペンがばらばらとケースから真っ逆さまに落とされて、紙の上でころころ転がる。向かいに腰掛けた涼宮さんはちらりと横目でベッドのほうを伺ってから、まっさらで真っ白な紙を見下ろして満足そうに二度頷いた。
『さあ古泉くん。既存の製品には今までなかった、めちゃめちゃ楽しいSOS団専用のすごろくを作りましょう!』
 病人の存在と病院という場所に配慮してか、涼宮さんは小声で高らかに宣言するという不思議な声の出し方をした。冬の陽はとうに落ち切っていて、一人用の病室の灯りは古い蛍光灯だけだったのに、彼女の笑顔はその何千倍も輝いて見えた。もちろん普段よりはずっと大人しい笑みだったけれど、僕にはそれで充分すぎるほど充分だった。
 涼宮さんが思い描いて指示する通りに、僕は定規でたくさんのマス目を描いて、ふりだしからあがりまでをつなげる。彼女はその一マス一マスに面白くて楽しい文言を書き入れて、二人で色を塗ったり飾りを描いたり、人数分のコマを作ったり、広い白紙はどんどん明るく、カラフルに埋まっていった。
『ねえ古泉くん、なんかキョンにやらせたいことある? この際だからなんでもいいわ。あたしもういっぱい考えすぎてちょっとマンネリなのよ』
 彼女の言葉の通り、縦横無尽に伸びるマス目の中には「キョンは」とか「キョンに限って」とか「キョンに対して」とか、彼のあだ名がいくつもいくつも散らばっていた。『もしいきなりあいつが起きたら古泉くん、あたしが時間稼ぐから急いで隠してね。』僕たちは絶え間なくペンの音を響かせて、小声でいろいろ相談をして、色が変わったリンゴを噛んで、心無い点滴の音を塗り潰す。一分と置かずに何度も何度も、彼女の視線がベッドのほうへ飛んでいくのには気がつかないふりをして、僕はペン先に目を凝らした。『せっかく古泉くんが企画してくれるんだもの、なにがなんだって叩き起こしてだってみんなで行くのよ。』泣きそうな子供に言い聞かせるような口調で断言した彼女は、僕が笑って言葉で同意を示すまで、そっぽを向いて待っていてくれた。だから。
『すごいわ! 完璧よ! うん、我ながら会心の出来ね! 団長と副団長の合作だもん、これで面白くないわけがないわよね! 合宿の楽しみがすごく増えたわ、三十倍くらい』
 満面の笑みで手渡された完成品の特製すごろくを抱いて、僕はすっかり夜になった病室を後にした。扉の向こうには涼宮さんと彼だけを置いて、けれども心地よい疲労と安堵と、いよいよ行き場を失った不定形の感情が僕の血管をぐるぐるまわって、心臓に流れ込んで暖かく痛んだ。
『おやすみ、古泉くん。また明日ね。ありがとう。』
 別れ際の彼女が笑っていたように、僕も笑うことができていただろうか。

 住宅街がほとんど更地になりきるころには、青い巨人の数も片手の指で足りる程度になっていた。比較的動きの激しい神人によってたかってぶつかりながらも、僕は記憶の中の笑顔に、なんとなくもっと昔のことを思い出せるような気がしていた。家族で出かけた地元の遊園地の着ぐるみキャラクターとか、運動会で自分の組が優勝したときのことや、幼いころによく流れていた曲だとか、そのころ好きだった隣のクラスの女の子のことや、そういうひどくおぼろげで不確かな、さまざまな遠い昔のことだ。それらはみんなきっとしあわせな記憶で、今の僕にはもうすくい上げることはできないけれど、たぶんとても大切なものだったんだろう。でもこんなふうに、涼宮さんが心の底から笑うように、本当は今だって僕にはみんな残されているのだ。白壁の向こうの僕がしあわせなまま眠り続けているように、壁のこちら側にいる僕も、本当はなにも違ってなんかいないのだ。
 青を貫いて灰色の街の空へ出る。そうだ、この役目さえ手放せたら、本当に僕は戻ることができるのかもしれない。あのころみたいに満ち足りた、穏やかでも楽しい毎日に、彼女がいつだって笑ってくれるようになったら――
「え?」
 右肩に違和感を覚えて、次の瞬間には視界がまわりだしていた。ぐらぐら揺れる、妙な浮遊感、スローモーション、違う落ちてる、ああこれが重力加速度か、

『――ひとりで勝手に死んじまえ!』

「……っ」
 地面が平らになっていてよかった。
 すれすれで建て直せたらしい。足元のすぐ下には鉄筋コンクリートの残骸が突き出している。赤い可視光線の中、どうにか僕は空中に浮かんでいた。心配そうに揺れる上空のいくつかの光に、大丈夫だと軽くあたりを舞ってみせる。右肩にもどこにも怪我はない。どうやら、直撃コースにはぎりぎりいなかったのに風圧かなにかの衝撃に巻き込まれたようだ。あともう少しずれた位置にいたら、もしくは数秒でも我に返るのが遅ければ、今ごろ僕も瓦礫の山の仲間入りだったかもしれない。
 心臓がばくばく言うのに合わせて、とっくに消えた背中の傷も鼓動を刻む。さっき見えなかった走馬灯が今ごろ頭の中を駆け巡り、なぜか僕はひたすら彼の怒号に怯えていた。フラッシュバックするかすれた映像と、くっきり聞こえる彼の怒鳴り声のコントラストが著しい。右肩を左手で強く握る。痛くない。かすり傷もなにもない。それなら彼は怒らない。頬を殴られることもない。もうあんなことを言われたりしない。大丈夫だ。
 深呼吸を繰り返す。迷走する思考を止めて、ここでの僕の本来の役割だけに意識を向ける。残る青はただひとつだけだ。拡大しきったこの空間もようやく、今にも開放へ向かうだろう。後のことはそれからでいい。
『わかった。終わったら連絡しろ』
 あてつけのように簡潔な彼のメールに従うのも、最後の憂鬱が片付いてからだ。



 腹が減った。
 当たり前といえば当たり前である。今日は昼からの約束だったので、俺は遅めの朝食しか食わずにここに来た。それが現在の時刻はというと、ランチタイムがどんだけ長い店でもさすがにもうやってねえだろと言わざるを得ないような、どっちかというとディナータイムに入るくらいの完全な夕暮れ時だ。日曜なのに帰宅ラッシュだか夕飯の準備だか知らないが、人通りもかなり多くなってきた。こんなにヒマなんだったら交通調査のバイトでも引き受けてくればよかったな。結局一日中駅前で座ってただけじゃねえか。
「さむい」
 そして腹が減った。
 予想通り本を買いに行くという長門の背中を見送ってから、何度か自販機のあったか~い缶で暖をとろうとしてはみたのだ。だがあんなもん所詮飲み終わるまでの命であり、大体芯からあったまるわけでもないので全然根本的な解決にならない。しかもあったか~いのコーナーはスープやらおしるこやら果てはおでんやら、妙にイロモノなラインナップで半分くらいが占められており、いくら空腹であってもチャレンジ精神など持ち合わせていない俺は正直しばらくコーヒーはいいやと思うくらい大量のカフェインを摂取するハメになった。腹の中がやたら水っぽいぜ。しかしやはり最大の欠点は回数を重ねるごとに財布の中身までが冷え冷えとしていくことで、なんとなく俺はマッチ売りの少女に対して抱いていた同情と敬意の念が数十倍に膨れ上がるのを感じた。そんなもんで腹も膨れるならいいのにな。
「……はあ」
 大げさに吐いた溜め息の端が少しだけ白く濁る。嘘だろ、やっぱり気温が下がってるんじゃねえか。日没後に訪れるであろう更なる寒波を想像して、すでに背筋を冷たいものが走り出す。冬将軍はもう春ちゃんにバトンタッチしたとかなんとか天気予報で言ってただろう。さすがに凍死はご遠慮願いたいが、その前に普通に風邪を引きそうだ。治療費の領収書は古泉宛てで切っておくことにしよう。
 バッテリーがそろそろ危ない携帯に、来るはずの連絡はまだ来ない。いい加減臨時バイトも終わってよさそうな頃合だが、サービス残業でも押しつけられてんのかね。それとも本日は遠方へご出張だったか? なんにせよご苦労なことだ。
 古泉がのろのろ送ってきた簡潔極まりない文面に合わせて、俺の返事も相当無駄を削ってみたつもりだが、逆に言いたいことは完璧に伝わっているはずだろう。『終わったら連絡しろ。』俺が要求したのはそれだけだ。いくら古泉が俺の知らんうちに反抗期に入っていたとしても、さすがにそれくらいは素直に従ってくれるはずだ。てことは連絡が来ないのはまだ終わっていないから、なんだろうな。てんで面白くない。
「くそ」
 ……さすがに腹が減った。
 二時間くらい待ったあたりから、ここから動いたら負けのような気が段々とし始めていた。思えばこのへんで食料と暇潰しグッズを買い込みに行っておくべきだったのだ。一日の四分の一近くが無に帰した今となっては、もうなにがなんでも動いてやるものかという自分でもアホくさい意地のようなものが俺の中に深々と根を生やしていた。駅前だからちょっと歩けば腹も時間も満たしてくれるスポットはいくらもあるのだが、ここまで来ておいてこの広場から逃げ出すわけには行くまい。その一瞬の隙を突いて古泉の野郎がにやにやしながらやってきたらどうする? 寒さと空腹とヒマを耐え忍んだ俺の苦労が一切合財水の泡ではないか。来る前に連絡があるだろうとかそんな正論も俺の耳には入らない。さながら寒中我慢大会のギネス記録に挑戦しているような気分である。このまま男子待ちぼうけの世界選手にでもなるか。
 ここまでして待ってる相手も男だというのがどうもいまいち笑えないが、それにしても俺は貴重な休日をこんなことに費やして一体どうしようというんだろう。あまりにヒマすぎて悟りでも開けそうな気分だよ。宗教団体でも立ち上げてやろうか。
「……あれ? もしかして、キョンくん?」
 うまいこと信者から金を巻き上げる方法の考案に必死になっていた俺の耳に、慈悲深き女神の甘く心地よい声が届いた。勢いよく面を上げると、そこには春っぽい服装で天使のように微笑む魅惑のベビーフェイスがきらめいていた。
「よかったあ、やっぱりキョンくんだ。ふふ、昨日もここで会ったのにね」
「朝比奈さん。奇遇ですね、こんばんは」
 新興宗教はやめにしよう。俺は生まれたときからずっと朝比奈教の敬虔な信者なのだ。このお方の愛くるしさを崇めずして他になにを祀るというのか。俺は朝比奈さんの笑顔のためならいつでもいくらでも貢ぐ覚悟ができているぞ。
「こんばんは。ここでなにしてるんですか? あ、だれか待ってるのかな」
「そんなとこです。まあ、野暮用ですよ」
 実際ほとんどすっぽかされていますけどね、とかそんなカッコ悪いことはもちろん言わない。余裕綽々な俺は笑顔で朝比奈さんにベンチを勧め、自分の体温でやや暖まっていた場所からさりげなく横にずれた。俺の尻が冷たかろうが知ったことか。朝比奈さんの可憐なお体を慮るほうが何千倍も重要だ。ありがと、とちょこんと隣に腰掛けてくれるそのかわいらしい仕草だけで俺は胸も腹もいっぱいになりますよ。
「あたしはお買い物してました。これ、」
 朝比奈さんはかさばりそうな紙袋を膝の上に抱え込んだ。なにやら上品で洒落た感じのロゴが謙虚な大きさでプリントされているが、まったく見覚えのない字面だ。
「新しいお茶です。昨日古泉くんといろんなお店をまわってるときに見つけたの。そのときは我慢しようって思ったんだけど、結局気になっちゃって……」
 えへへ、と部室専用のメイドさんは恥ずかしそうに手元の紙袋を見つめる。お茶に関する知識など皆無な俺には、朝比奈さんが弾む声で教えてくれたその銘柄が高いのか珍しいのかうまいのかなんなのか、とんと見当もつかなかった。あなたが淹れてくださる液体なら、俺にとってはなんだって最高級品ですよ。そんなやつに飲ませ甲斐はあまりないでしょうが、だいたいSOS団の中にはお茶の品評ができるほど舌の肥えた人間は一人もいなくて微妙に申し訳ない。
「あたしが勝手にやってるだけだから、そんなに気にしないで飲んでください。でも、分かったらとっても面白いんですよ。種類も淹れ方もいろいろあるの」
 朝比奈さんはにこにことしあわせそうに笑う。なんとなく、新しいボードゲームを持ってきたときの古泉の笑みを彷彿とさせる表情だった。
「……朝比奈さんは本当にお茶が好きなんですね」
 つられて頬の筋肉を緩めながらそう言うと、きょとんとした大きな瞳に見返された。ぽかんと口を開けた朝比奈さんは、俺がなにかおかしなことを言っていたのか、すぐにくすくすと笑い出す。入れ替わりに今度は俺がぽかんとする番だった。混乱状態に陥った俺に、朝比奈さんは肩を揺らしながらごめんねと弁解する。
「昨日、古泉くんにもおんなじことを言われました。言い方まですごくそっくり」
 細められた瞳には、妹がまるまって気持ちよさそうに眠るシャミセンを大人しく眺めているときと同じような色が宿っていた。虚を突かれた俺はとっさになにをコメントするべきなのか分からず、ただ朝比奈さんの楽しそうな顔を見つめるだけで無言になる。
「あたしがずっと悩んでて動かなかったからなんだろうな。今のキョンくんみたいににこにこしてました。あ、いつものにこにことはちょっと違ってて、なんだろう……そうね、妹さんを見てるときのキョンくんになんとなく似てたかも」
 それは、いつになったら落ち着きというものを得るのかコイツはといううんざりな表情だったってことですか。と言おうとしたがさすがにやめた。
「キョンくんと古泉くん、結構そういうことありますよ。涼宮さんや長門さんにも聞いてみたらいいです。たぶんあたしと同じこと言うんじゃないかな」
 当然の常識のようにさらっとそんなことを告げられても、生憎俺は台本を作ってこなかったので愉快なリアクションはなにひとつとしてできそうにない。それはあれですか、俺も古泉も知らないだろうがまわりから見れば一目瞭然ですとかそういう……自分で言ってて気持ち悪くなってきた。いやでも、ほら、一年近くもお互いの話し相手を務めていれば自然と口調が移ったりはするだろう。なんてこたない、経年による自然現象みたいなもんだ。不可抗力だ。決して団活以外でも意味もなく会っているせいとかそんなことは全然ない。微塵もない。大体そのくらいでいろいろ共通項ができるほど俺と古泉は似通ったもんじゃないだろう。それがいいか悪いかは今は置いておくとして。だから……なんだっけ、俺と古泉のなにがかぶってもそれは全部確率論の問題なんですよ、朝比奈さん。
 口をつぐんだまま百面相しているであろう俺をしばらく面白そうに見ていた朝比奈さんは、ふと視線を外して前方に向き直った。それから、自分の手のひらにぼんやりと観察するような視線を落とす。口元にだけ笑みを残した横顔が、いつもより少しだけ大人っぽい。
「いいじゃないですか。涼宮さんも言ってたけど、あたしはすごく楽しいです。今が……あたしにとっては過去ですけど、でも現在でもあると思うんです。キョンくんたちの未来もあたしにとっては過去なのかもしれないけど、ここにいたらあたしにもそれが未来のことになるんじゃないかって思えるの」
 脳裏に朝比奈さん(大)の落ち着いた微笑が蘇る。けれどもこっちを振り向いた今現在の朝比奈さんは、これから先の記憶の中よりずっと鮮やかに、奇跡のようにかわいらしくほほえんでいた。それこそまるで、本当に女神か天使のような優しさに満ちた笑顔だった。
「待ち合わせ、早く会えるといいですね」



 お礼を言ってタクシーを降りると、日が落ちた後の凍える外気が一挙に体中を覆った。暖房の効いた車内に長くいたせいか、急激な温度変化についていけずに全身に鳥肌が立つ。こんなに遅くこんなに寒くなるんだったら、もっと厚手の上着を持ってくればよかった。あたりはすでに完全に夜の色に染まっており、ぽつぽつと立つ街灯の明かりと、少し先の大通りから届くネオンの光や車のライトが闇の中に浮かんで見える。
 彼が指定したいつもの集合場所までは、ここからは少し距離がある。新川さんに頼めば目の前に降ろしてもらうこともできたのに、約束を盛大に破った僕は分かりきったことを確かめに行くのをみっともなくもためらっていた。
 言われた通りにようやく入れることができた連絡に、案の定というべきか意外にもというべきか、彼からの返事は一言もなかった。当然の結果かもしれない。待ち合わせをしたのは昼で、今はもう夜としか呼べないような時間帯なのだ。わざわざ歩いて行ったところでなんの益もないことは充分理解しているが、自分の都合で一方的に約束を反故にした手前、一応責任を取る必要はあるはずだった。大義名分の名を借りた勝手な言い訳を頭の中でつらつらでっち上げながら、僕は細い道路の端を、そのくせ早足で歩き出す。
 彼女の精神はやっと元の落ち着きと高揚を取り戻したようで、再び荒れる気配は今のところ感じられない。長引くものでなくてよかった。明日にはきっと、部室でいつも通り元気に笑う彼女と楽しい時間を過ごすことができるだろう。今日はたまにあるイレギュラーで、明日からはまた昨日と同じような毎日に戻る。
 そして明日、彼に会ったらきちんと謝罪をしなければならない。たぶん相当ご立腹に違いないが、キャンセルの理由は伝えたことは伝えたのだから、話くらいはなんとか聞いてもらえるはずだ。まさか放課後の部室で醜態を演じるわけにもいかないし、解散後にでも僕の部屋までご足労願うのが妥当なところだろうか。あのときと似た状況を作るのはできるだけ避けたいなと思ってしまってから、どうでもいい、どうにもならない出来事のひとつだったはずの記憶が元の場所にはまらなくなっていることに気付いて呆然として、それ以上なにか考えるのをやめた。
 思考が停止すると、今まで麻痺していた肉体的な疲労が堰を切ったように押し寄せてくる。それでも僕の足は着実に目的地へ向かって歩を刻む。存在感のない横道からやっと比較的賑やかな通りへ出て、思わず僕は一瞬だけ立ち止まった。人のざわめきと対向車線のヘッドライトに目がくらむ。暗闇と静寂に慣れた頭には行き交うすべてのものが眩しすぎて、やっと明るいところへ戻れたというのに、それらはどこか遠い世界の光景のようにさえ思えた。
 ――終わったら連絡しろと言ったのは彼なのに。
 揺れる頭が出し抜けにもう一度、病室で見た彼女の笑顔を再生する。涼宮さんの抑えた声が、僕には呼べない彼の名前を幾度も繰り返して弾む。『あってもなくてもどうでもいいな。』彼は退屈そうにそうつぶやいたけれど、たとえあの三日間が僕が夢見たただの幻だったとしても、僕にとってはひどく苦しく、それでも確かにしあわせな記憶だ。届かないずっと向こうで幼い僕が眠るように、彼の知らない、尋ねない、それこそあってもなくてもどうでもいいであろう、ただ僕だけの記憶なのだ。
 後ろから来た自転車のベルの音で、現実が輪郭を取り戻す。
 緩んでいた歩みを止めないままで脇に避けて、知らない誰かの背中が遠ざかっていくのを待つ。駅までの道のりがやけに遠く感じられて、今度こそ僕は歩調を速めた。彼がそこにいないのならそれで構わない。なにも変わらない、謝るのが明日に伸びるだけのことだ。確かめに行きたいだけなのだ。
 車道を横切ろうとして、赤信号にぶつかって止まる。目の前に広がっている無数の白線は夜の闇に溶けてよく見えない。最初の一歩はどこに出そうか。白の上だけとんでいけたら、涼宮さんが探していたような不思議なものが見つかるのだろうか。『昨日まではなかったはずのマンホールとか、知らないうちに増えていた横断歩道の横線とか、目を皿にして歩いていれば一つくらいは見つかるでしょ。』彼女の言葉を、顔を上げないことへの、彼のほうを見ないことへの免罪符みたいにして、青に変わった信号のもとで、僕は白い線の上を落ちないように渡っていく。
 先日こうやって彼と交わした会話が、一歩ずつ頭の中で繰り返される。聞こえるのは彼の声だけだ。表情はほとんど見なかった。彼だって上ばかり見ていて、僕のほうなんてほとんど見ようとしなかった。同じことばかりしている気がするのに、僕らは決して同じにならない。彼と同じただの高校生に僕はなれないし、彼は不思議な人だけれど、彼自身が不思議なものにはなりえない。だから僕は彼と対等な関係にあるだなんて思い上がることはしないし、彼は超能力者でない僕のことなんて知ろうとはしない。そうあることを望むことも、許そうとはしてくれない。
 本当は順番が逆なのかもしれないが、横断歩道を渡りきった僕にはもう知る由もないことだった。待ち合わせの場所まではあともう少し、踏み出すたびにどんどん歩幅が広がっていって、いつのまにか僕は駆け出していた。



 待ちに待ちすぎて待ちくたびれた古泉からのメールが届いたのは、最大の熱源であった太陽が西の彼方に沈んでからずいぶん経ったころだった。すっかり夜になった駅前は、外れることを心の底から祈っていた俺の大予言が見事的中し、シベリアか南極と間違えそうなくらい寒い。この時期にこんな気温になるくらいなら地球はもっと温暖化させておくべきなんじゃないかとIPCCに直訴に行きたいほどだ。あくまで夏をこよなく愛する俺の主観だけどさ。マフラーをしてこなかったことが人生でこれほど悔やまれた日もないだろう。今なら耳で釘が打てるような気がするぜ。凍り付いててまったく感覚がないからな。
「……やっとか」
 ひとりごちるセリフすら間抜けなことに震えている。ポケットから出たら即体温が一気に奪われるため、また、あまりの空腹のために日が暮れるころには俺の手はほとんど自由が効かない状態になっていた。そんな中で自らを省みず果敢に飛び出していった右手には、とうとう電池残量が赤になった携帯がしっかりと握られている。
 ようやく、本当にようやく届いたメールの文面は、相変わらず簡潔を極めていた。
『終わりました。もうすぐ帰れると思います。今、どこにいらっしゃいますか?』
 古泉のことだ、本気で昼から今の今まで戦っていたんだろうと思うと、かけるに足る労いの言葉もロクに思いつかないね。バカな意地張ってもここから逃げ出さなくてよかった気がする。俺はなにをしていたわけでもないが、一応気持ちだけ。
 今どこにいるか、か。まだ同じ場所で待ってるとか言ったら一体あいつはどんな顔をするんだろう。もう少し待てば直接見られるだろう表情がたまらなく楽しみだ。それから暖かい室内と暖かいご飯も同等かそれ以上に楽しみだ。さすがの俺もそろそろ人間としての限界が近い。
 返事は電話でしようかとちょっと迷ったが、でもどうせなら声を聞くのは会ってからのほうがいい。なにせここまで待ったのだ、これで感動の再会にならなかったら俺はどう暴れるか分からない。とりあえず返信の画面をひらいて、さて、なにを言ってやろうか。
 と思ったところで、
「うわ!」
着信を告げるメロディが大音量で鳴り響いた。
 思わず軽く浮いた携帯を握り直しつつ、画面を睨むとそこには、でかでかと涼宮ハルヒの名前が表示されていた。いつも通り空気を読むということを知らない完璧なタイミングだな。今日の古泉のバイト先がこんな時間に俺に一体なんの用だ。
「よお。どうした」
『……あ、キョン?』
 お前からかけたんだから俺が出るに決まっているさ。しかし電話してきたハルヒが俺に第一声をすべて言わせてくれるとは、珍しいこともあるもんだ。
『なによ、人聞き悪いわね。ちょっと聞きたいことがあっただけなんだけど、やっぱもういいわ。あんたに質問しようなんてあたしがどうかしてた』
 まあ待てよ。そうカリカリするもんじゃないぞ。そんなだから近頃の若者が年長者から諸悪の根源にされるんだ。もっとゆったりのんびり行こうぜ。そうだな、待ち合わせに半日近く遅刻されても怒らないくらいが理想だな。
『ああ、あんたはそんなだから毎回毎回遅刻してくんのね。よくわかったわ』
 ええいうるさい。お前ももっと時間に関して寛容になれよ。
「ところで、さっきの質問とやらはもういいのか?」
 不利な話題を打ち切りたくて無理矢理冒頭の話を蒸し返してみると、テンポのいい返事が不意に途切れた。ハルヒにしてはかなり妙なことに、若干ためらうような気配が無言の中から伝わってくる。
『……さっきまで部屋の片付けしてたのよ。押入れの中とか、いろいろ』
「……ほお? それで、綺麗になったのか」
『全然。いらないもんばっか感心するほど出てくんのよ、ほんと。昔の……小学校のときの文集はかなり笑えたけどね。でも、中学のときのノートとかアルバムとかさ、奥のほうにいっぱい残ってたのよ。あんなもんなんで、どうしてとってあったのかしら。ちっとも分かんない』
 ぜんっぜんつまんなかったのに、とハルヒは拗ねた子供のような、極刑を下す裁判官のような声を出した。
 ――なるほど、古泉が長時間労働するハメになった理由はこれか。こんなことでも、まだこんなにも揺らぐのか。中一のときのハルヒはそれほど極端にヒネてるようにも思えなかったが、入学式直後のハルヒも黒いブレザーを着込んだハルヒも、そういえばとてもじゃないが楽しそうには見えなかったな。
「必要だったからだろ、そんときはさ。……いいじゃねえか、くだらん思い出の品も大事にしてれば百年後には多少価値が出るかもしれん」
『……ばっかじゃないの』
 あの悪夢のような三日間が始まる前に、古泉にぶつけられた言葉を思い出した。『あなたは知らないでしょう。高校入学以前の涼宮さんがどのようだったかをね。』そうだな、俺はそのへんのことはなにも知らない。せいぜい谷口や古泉の語るあまりよろしくない断片情報から勝手に妄想しているにすぎない。ぜんっぜんつまんなかった、楽しげに笑う姿なんて想像もできない、数時間刻みで神人を暴れさせてるような、……どんな中学生活だ、それ。
『でも、そうね。あたしがSOS団団長として世界に名を轟かすころには、ありとあらゆる所持品に超プレミアがつきまくってるに違いないものね。うん、そうねえ、なにも捨てることはないかしら』
 あっさりともとの調子に戻った声の後ろで、なにやらがさごそと物音が聞こえる。大方、将来金目のものに変わるならなんだっていいやとゴミ袋からサルベージ作業でも始めたのだろう。文字通り現金なやつだ。
『あー、あたし忙しくなったから! じゃまた明日学校で会いましょ』
 今度こそ返事するヒマもなく切れた。実に忙しないことだ。でもまあ、ハルヒがいつも通りなら、
「……よお。遅かったじゃねえか」
古泉もたいていはいつも通りだから、特に文句のつけようもないな。
 ツーツー言ってる携帯を折りたたんで、珍しく息のあがった古泉にゆっくりと近づく。やはり文字だけのコミュニケーションとは比べるべくもない、実物の圧勝だ。どうやらここまで走ってきたらしい古泉は、呆然と驚愕と安堵の入り混じったような瞳を揺らして俺を見ている。
「あなた、まだ待ってたんですか……?」
 よりによって最初の挨拶がそれか。もっと気の利いたセリフでもべらべらしゃべるのかと思ってたんだが。
「帰っとけっては書いてなかったろ? まあ、俺も遅刻してきたから似たようなもんさ」
 一分だけだけどな。
「……でも、メールに返事なかったですよ」
「ああ、ちょうど電話かかってきたからな。ハルヒからだったぞ」
「は…………ああ、なんだ。……そうだったんですか」
 古泉は疲れ果てたみたいな顔で、気が抜けたようにへらりと笑った。俺は冷え切った手を上げて、いつもより乱れた古泉の髪を適当になでる。暗いしそれほど人通りもないし、第一どんだけ待たされたと思ってるんだ、このくらいはべつにいいだろ。古泉も抵抗するつもりはないようで、というかそんな気力自体残っていないようだった。俺がこのまま労いの言葉をかけてやるべきか否か悩んでいると、下を向いた古泉の頭が俺の胸元に衝突してきた。
「すみませんでした。……こんなにお待たせしてごめんなさい。お詫びは後日改めてきちんとした形でしますから、その」
 お詫びとか言ったってどうせ高級菓子の詰め合わせとかだろ。いらん。大体俺が怒ってないのは見れば分かるだろうに、お前の中の俺は一体どういう人間になってるんだよ。両手で左右から頭を挟み込んで、胸にくっついた顔を上げさせる。明るくないからよく見えないが、古泉の顔色はあまりよくもなさそうだった。もしかしなくても俺も似たようなもんだろうけどな。唇が紫に変色してないことを祈ろう。
「怪我はないよな」
「ご覧の通り、かすり傷ひとつないですよ」
 芝居くさく両手を広げて、古泉はやっと普段通りの笑顔を見せた。そこはかとなく安心する。やっぱり見慣れた姿で元気でいるのがなによりいちばんいいもんだ。べつに古泉に限ったことじゃなくて、一般論的にさ。
「古泉、お前もどうせメシ食ってないんだろ? 俺は腹減って今にも死ねそうなんだが」
「そうですね、食事はとる時間がなかったもので。……なんであなたまで食べてないんですか」
 男の意地で、ちょっと。コーヒーはそりゃもう大量に飲んだんだけどな。
「とりあえずお前んちでメシだメシ。あったかいやつな」
 肉付きの悪い腕を引っつかんで、行き慣れたアパートの方角へ歩き出す。古泉はあからさまに面倒くさそうな顔で俺を見た。なんだ、文句でもあるのか。
「冷蔵庫ほとんど空ですよ。それに今日はもう、さすがに今から作るのは……」
「わかってるよ」
 途中でお前んちの近くのスーパーにでも寄ろう。そんで、出来合いのおかずを好きなだけ買って、レンジで炊き立てになるごはんも買って帰って、熱いお茶でも飲みながらくだらんテレビでも見つつだらだら食って、それからはまあ言わんでもいいな、そんなんでいいだろ。俺はそういう日曜日にしたかったんだ、今日は。
 人のいない細い横道に入ったところで、腕から手を離してどちらともなく手をつなぐ。家事から解放されたのがそんなに嬉しいのか、古泉はちょっとかわいぶって笑ってみせた。恥ずかしいことはやめなさい。かわいくねえよ。
「……そうだ、お詫びって言うならな。お前んち、押入れとかあるか?」
「押入れですか。一応あることはありますけど……お詫び? なにをするんです?」
 たとえば、俺の知らない昔の話を、お前の口から教えてほしいと言ったら、古泉はどんなふうに笑うだろうか。俺が知らないハルヒの三年間はきっと、古泉の三年間ともつながっていて、古泉はそれをずっと近くで見続けてきたんだろう。今日と同じように。でも、
「思い出話でもしようぜ」
古泉自身の昔話は、きっと古泉しか知らない。

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